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辛いカレー

今夜は久々にひとりゆっくりと家でビールを飲んでいる。
ビールの銘柄に特に強いこだわりはないが、あえて言うなら「よく冷えているビール」を選ぶ。陳列されたばかりのビールを買うことは少ない。

今、セブンイレブンでカレーフェアをやっている。
この間、たまたま買ったドライカレーのおにぎりがそのいっかんの商品だったようで、これがなかなか美味しかった。
ので、今夜もセブンイレブンへと赴き、辛いと噂のカレーを買ったのだが、今のところ腹が減って来ていないので食べるか分からない。
このまま食わずに棄てれば無駄遣いになるが、増え続けている体重も気になるので食うことによって先日のランニング分が無駄になるなとも思う。
であれば、カレーを購入したこと自体が失敗だったのかなと思いつつも、明日の朝にはカレーを食べたくなって「朝カレー」の習慣に目覚めるかも知れない可能性をわずかながら残しているので、朝食をほとんど食べない私に取ってはプラスの要因になりえるかも知れない。
最終的にある選択が正解だったとか、不正解だったとかは秤を置き換えればいかようにも結果が覆ってしまうものなので、私は結果よりも選択すること自体を楽しめたならそれで良いんじゃないのかな、と思う。

私は、結果だけ求めることが嫌いだ。
例えば、ある目的地へ向かっていたとして、最短のルートや、もっとも安全なルートを辿ることが最適解だとは思えない。
端的にいえば、道中「おもしれぇ!」と思えるなら、それが一番だと思っている。結果、目的地に辿り着けないだとか、他の人より10年も遅く目的に着いただとか、なんなら途中で死んだとか、それでも本人がぐっと噛み締めるものがその道中にあるなら、いくらでも「無駄」と言われようが「馬鹿」と言われようが突き進むべきだと思っている。どうせ最後には死んでしまうのだから。

私がそう思うのは、少年時代の経験に由来する。
まず、大人が嫌いだったのだ。大人というのは話が真剣味を帯びてくる程に、段々と眉間にシワが寄ってきて、目尻があがり始め、しまいには顔を真っ赤にして怒鳴り合う、近くで子どもが泣いていようがお構いなしに怒鳴り合う、そんな存在だった。
今にして思えば、そんな気持ちも少しは分かる。世の中において余裕がある大人とうのは、自分は他人より優れていると思っている大人だ。自分が他人より劣っていると思っている大人は、ちょっとしたことで激昂する。卑屈になっているからだ。
世の中の大多数の大人は後者だ。だから、大多数の大人は普段はへらへらと負け犬のようにあちこち媚びを売っているが、気の置けない仲間や、もしくは自分より下と見ている人間の前や、もしくは酒の入ったときなど、特に仕事や金など真剣な話題になった途端、豹変する。怒鳴る。喚く。手を上げる。

だから、私は大人の価値観を否定したい。
というか、その価値観を提供している側を否定したい。
先に言ったように、正解か不正解かは秤を置き換えることによっていくらでも変わる。それをあたかも価値観というのは世界が始まった瞬間から固定されているかのように流布する人々を否定したい。
無駄や損失が生み出したものもあると肯定したい。
そう、ここは30年間変わらなかった国、日本だと声を大にして言いたい。

と、戯言を述べながら、先のカレーを食べた。
話に聞いていたより、想像していたよりも、もっとずっと辛かった。
金を掛けた挙句、体重は増えるだろうし、辛くて悶えたし、香辛料のせいで腹を壊すだろう。でも、それが無駄か、損失かは分からない。

それは、今はまだ、
私がどこにも秤を置いていないからだ。

− 宙に舞わせ遊んでいる。判断は、何年後になってもいいから、丁度いい頃の私がする。

ただ、明日も仕事だ。
缶ビールを5本も開けてしまったのは失敗だろうな。

と、嘆く。

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