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「忘却力」こそ精神の均衡を保ち健康を維持する秘訣

私は言語に非常に(異常な?)関心がある。言語自体の構造、言語理論や言語哲学、文化記号論にももちろん関心があるが、比較言語学的観点から様々な外国語にも強い関心がある。自分たちとは異なる様々な文化や伝統、そして異なるものの見方や考え方を正しく理解するにはそれらの精神文化を発現させている様々な言語を直接体得することが何より重要であると考えるからだ。

それで「これまでに十数カ国語を習得した」などと言うと、大概の方はさぞかし驚かれるに違いない。しかしながら習得する言語の数が増えるにつれてそれと反比例するかのように習得に費やす労力や時間は減っていくものだ。複数の外国語を勉強したことがある方であればお気づきかと思うが、最初に習得する外国語(通常は英語)が実は一番苦労するのだ。それに外国語とはいっても例えばフランス語、スペイン語、イタリア語などは兄弟言語であり互いに方言といってもいいくらいに共通性が多い。

だから十数カ国語を習得したからといって実はそれほどたいしたことではない。それに外国語を習得するのに特別な才能は全く必要ない。単にその言語に興味がありさえすればそれほど苦労することなく習得できるのだ。それにネイティブと全く区別がつかないくらいのレベルになることを望むのでなければ語学の習得は幾つになっても可能だ。逆に語学に全く関心がなければその人がどんなに逸材であっても1カ国語でさえ習得するのは難しいだろう。

とはいえ私の場合、たとえ十数カ国語を習得したからと言って今現在それほど不自由なく話せるのはたかだか数カ国語に過ぎない。その他の言語は日常的に全く使う機会がないのですっかり忘れてしまっているのだ。ただ全くの初心者と違ってほんの数カ月復習すれば以前のレベルにまで回復することは可能と思われる。

だからといって忘れること自体は別にちっとも恥ずかしいことではない。人間は生きていくうえでそれほど重要でないことは次から次へと忘れることができる「忘却力」があるからこそ精神の均衡を保つことができるのだ。以前私がニューヨークに住んでいたとき7カ国語を自在に操れるというユダヤ系の方に引き合わされたことがあった。まぁ一種の日米対抗試合のようなものだ。その方と1時間ほど様々な言語(外国語)で話して分かったが、彼はロシア語とイタリア語を正しく話すことができなかった。後で「もうずいぶん前に勉強したきり全然使ってないので忘れてしまった」などと弁明していたが、むしろそれが普通なのだ。

一人の人間が幾つもの言語を常に自由自在に使いこなせるとしたならばそれこそ異常であり問題だと思う。以前20カ国語を自在に操ることができるとかいうニューヨークの青年の話がニュースに取り上げられたことがあったが、普通の人間しかも17歳で同時に20カ国語を自由自在に操るなんてことはまず不可能だ。もしその青年が本当に20カ国語を自在に操れるのであればそれは「サヴァン症候群」という一種の自閉症(脳機能障害)にかかっていると見てほぼ間違いない。

「サヴァンな人たち」は他にも例えば何十年、何百年先あるいは過去のある特定の日の曜日を瞬時に答えたり、分厚い百科全書を丸覚えしたり、普通の人間ではとても考えられないような特殊な能力を発揮する。「サヴァンな人たち」は人間が本来持っている驚異的な能力を特定の分野ではあるがその極限まで引き出すことのできる反面、自閉症を伴うため他人の顔の表情を読み取ることが苦手で人見知りが激しい。

どんな曲でも一度聴いただけで正確に繰り返すことができたというモーツァルトやメンデルスゾーンも恐らく一種の「サヴァンな人(あるいは高機能広汎性発達障害)」であったと思われる。「サヴァンな能力」が強くなればなるほど、現実世界から切り離され普通の日常生活を送るのが困難になる。何故か?過去の様々な記憶の蓄積で頭の中が埋め尽くされてしまうために精神の均衡が失われてしまうからだ。だから他人が羨むような特殊な能力に恵まれている人が必ずしも幸福とは言えないのである。

私たち人間は毎日たくさんのことを忘れ、頭の中をリフレッシュすることによって精神の均衡が保たれ、今日そして明日を実り豊かに生きていくことができるのだ。

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