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『昭和の良き日々・我がふるさと』     第1章 いしもと弘文のプロフィール

我がふるさと八幡市

『焼け野原の熱気が漂う街』<奇妙な面白き人生なり> ずいぶん昔の話になりますが、第二次世界大戦の敗戦と同時に中国海南島から焼け野原の『鉄の都八幡市』に親父が帰国してから、その跡地に闇市が乱立した、もの騒がしい雰囲気の中で第一次ベビーブームと言われる時期に生まれてきました。その頃の写真がやたら沢山残されているので、それらを見ると悲惨な戦争の後とは思われないほど陽気で明るい楽しい写真ばかりで驚きですね。昭和24年度に八幡製鉄所の青空を覆い隠すモクモクと上がる黒煙の見える場所に闇市上がりの商売人が集って当時としてはハイカラな商店街が形成されました。多くの人々が飢えていましたが、頑張れば容易に掴める<Japanese Dream>を求めてうろつき回っている状態でした。実体はそんな生優しい、ロマンチックなアメリカンドリームとは程遠い話ですがね。すべてが食べ物を探して殺気だった空気の中に妙な連帯感生まれ、仲間がお客様を呼びお客様が商売人を呼ぶ不思議にお互い助け合う『中央区商店街組合』と言う新しい共同コミュニティが生まれました。汚れた顔、見すぼらしい衣服、破れた靴を履いて生きる喜びを噛み締めて生活苦と戦っていた。『なんと素晴らしい人生を暮らしているのだろう!』言葉には出ないが顔色を見れば誰にでも理解できる、何か謎めいた感覚に満ちていた時代だった。もう今の若い人には2度と実体験できない、我々だけが、この手で掴める、味わえる風変わりな空気に満ちていたのでした。

『子供は遊びの達人』

『えい、子供は商売の邪魔だ!』『勉強など、とんでもない、好きなだけ外で遊んで来い!』外に出れば年上・同輩・年下子供だらけ、すべてが知らない子供も友達同士、年上の兄貴は遊び上手、なんでも面白い遊びを、弟諸君に教えなくて良い、一緒に朝から夜遅くなるまで遊んでやれば覚える、何と面白い遊びを想像する先輩、次から次へと出るわ出るわ打ち出の小槌、破れ太鼓だ。『誰に習った、僕に教えてよ』などと聞くヘボな奴はいない。夕飯を食うのも忘れて遊び三昧、真っ黒になって帰れば、『ほら、銭湯へ行って来い』風呂は子供のもっとも楽しい場所だ。喜んで小銭をもらって商店街の裏手にある銭湯『中央湯』へトコトコと歩いて行く。『知っていますか?』『何に知らない』『知らなくて良い、狭い家風呂で遊んでいる子供達は哀れな姿』『俺は天下の鯨さえ泳ぐ海風呂、否お湯風呂だ!スイスイ泳いでその後は、オケで作った手桶舟で向こう岸まで浮かんで楽ちん楽ちん!』『玄界灘を泳いでスタコラ渡っている感覚だよな!』『誰だ、看板迄、何時間風呂に浸かって、ふやけるぞ、友は友を呼ぶ満員御礼』押すな押すなの行列作って芋洗い。うるさいオヤジもいないし天国天国。子供は裸で、番台に座っている看板娘も恥ずかしくはないぞ!時に危険なことがある、ある爺さんが勢いよく、戸を押しのけて入ってくるなり、『可愛い........』と言っていやがる俺の小さな大事なヤツをね。それも『チン』と抜かして弾きやがる。俺は仏様ではないぞと思ったが、全ては自然の水の流れにまかせて、"Let's it be ."   番台の姉ちゃんも笑って見ないフリをする。『何ていやなジジだ』とは何も思わない、優雅なひと時が流れる。ここでは、ごく普通の光景、風物詩だ。『あー何時間浸かっていたのだろう』心配して親が探しに来ることもない、何時、いくらでも遅くまでいても値段は一緒、さあ、椅子に座って、ガタガタ動くマッサージチエアーに座っているオヤジを横目に、牛乳瓶を取り出してごくごくと一気飲み、暑い風呂の後はこれに限ると一人前の親父のセリフを吐いて今日はこれでゆっくりと帰るか!家に遅く帰っても誰も怒らない。今日も日が暮れ空いっぱいに、びっしりと星の輝きを浴び、あれ本当だったかな、1日が暮れる。

稚山幼稚園に中央町から大蔵を通って歩いて通った。危険のないように車のほとんど通らない山道を、市立八幡小学校卒業・市立中央中学校卒業、思い出三昧、楽しさ千倍勉強は強制されなくとも県立八幡高等学校入学。高等学校の懐かしい思い出はすっかり忘れてしまった。殆ど忘れてしまった。思い出せない。                            『楽しいことは学園になく遠く西鉄電車の終点門司港めかりにあり』

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