右翼的考え方のその先に

稀に自分の考え方って右翼だよなと思うことがある。

日本人として、自分が生まれた国が大好きで何がいけないんだ、JAPANファーストの思想を持っていて何がいけないんだ、というのが僕の意見である。だから、日本が世界一の経済大国にならないことはいささか遺憾の意であるし、経済面だけでなく、思想、文化、あらゆる面で日本が世界を牽引していって欲しいと思うことが多々ある。

YouTubeで石原慎太郎の伝説の国会答弁を視聴したことがきっかけで、僕が抱いていたこの思想はさらに強固なものになった。

その答弁では、石原慎太郎が次のような二つのことを言っていた。

1、「日本人は日本の憲法を自分たちで作り直すべきである。歴史を見ても、無条件降伏をしたのは日本だけであって、ドイツでさえ、自国の憲法は自国で作るとして降伏している。」

2、「安倍総理、今年は靖国神社への参拝はされますか?僕は行かなくても良いと思っているんですよ。でもね、代わりに天皇に行ってもらえば良い。首相の靖国神社参拝は、確かに政治問題に発展するが、天皇は関係ない。だから天皇に行ってもらうのがいい。そもそもおかしな話だ。日本人が日本のために戦った日本兵を参拝して何が悪い。」

これを見て石原慎太郎に心酔した。

一方で、彼の軍国主義的な考え方は、今の自分の政治観と本当にマッチするのだろうかと一縷の疑問を持った。

ところで物事に対して意見を持つにはしっかりとその事象について理解することが必要だと思う。

発言には責任が伴う。

だから僕は自分の政治観についての答えを出すためにしっかりと歴史を学び直すことが必要だと判断し、太平洋戦争史について学び始めた。

なぜなら、誰かに僕の考え方は右翼的だよと伝えた際、なぜ右翼的なのかを伝えられないことは、発言に対する責任を放棄していると感じたからだ。

太平洋戦争について学んでいると、多くの新しい発見があった。

例えば、真珠湾攻撃は、実はアメリカにバレていたこと。

真珠湾攻撃には予め、森村正(本名 吉川猛夫)がハワイでスパイ攻撃を行っていたが、アメリカはこれを知っていた。つまり真珠湾攻撃が行われることはアメリカに知られていた。

しかし、当時の大統領ルーズベルトは公約で戦争を行わないとしていたためこれが邪魔をしてアメリカ側から戦争を仕掛けることはできなかった。そのせいで国内で恐慌が起こり、徐々に国民から戦争を望む声が強くなっていった。

真珠湾攻撃は敢行させれば、報復として戦争に踏み切れる。

したがって真珠湾攻撃をさせたのである。

また、なぜ日本は無条件降伏をしたのかについての答えも探しにいった。

なぜ、日本の憲法をアメリカが作ったのかの答えを探しにいった。

調べていくと、ポツダム宣言にたどり着いた。

ポツダム宣言の内容は主に以下のとおりで、

日本の無条件降伏・武装解除,民主主義の実現,連合国による管理

である。

ポツダム宣言は1945年(昭和20年)7月26日に発令され、8月14日に日本はこれを受諾して、次の日、終戦を迎えた。

ここから分かる通り、日本は、ポツダム宣言を受諾するまでおよそ3ヶ月の期間を経てから受諾した。

これは、無条件降伏ということがどうしても飲めなかったためだ。

しかしこの間に日本の戦況はますます不利になっていく。原爆投下もさることながら、東京大空襲や青森空襲など、本土への攻撃も激化していった。

その間、ソ連は北海道の半分を支配することを目的に択捉島に侵入。今の北方領土問題に続いている。そして、アメリカは九州上陸を目前に控えていた。

日本はどうやっても勝ち目がなかった。

だから、無条件降伏をしたのではなく、しざるを得なかったのである。

つまり石原慎太郎の言う「日本国憲法は日本人が作るべきである」はできなかったのである。

それからGHQが日本を実質支配したのは教科書に載っている通りである。ここで戦犯を決定する東京裁判が行われた。そこで7人のA級戦犯が決定し、死刑が執行されるわけだが、この人たちをはじめ、約250万人の戦没者たちが靖国神社に祀られている。

僕は今の日本があるのは先人たちが命を賭して戦ってくれたおかげであるから、日本人として靖国神社に参拝するのは至極真っ当のことであり、日本人なら誰もが参拝すべきであると考えていた。

しかし、隣国やかつての大東亜共栄圏に組み入れられていた国々の人々は靖国神社は戦争を美化しているだけに過ぎないという意見を述べている。これが日本の首相が易々と靖国神社を参拝できない理由である。

戦争を美化しているだけに過ぎない

確かに、一理ある。

隣国をはじめ、左翼の意見は、これと同じである。

戦争を美化しているだけに過ぎない

この言葉が右翼的な考え方を持つ自分の心に、まるで魚の骨が喉につっかえるかのように、引っかかった。

しかし、同時に、日本人として靖国神社に参拝したいという僕の思いは変わることはなかった。

この矛盾を解決しようと、さらに深く歴史を調べてみることにした。

その結果、ナチスに辿り着いた。

ホロコーストでの悲劇は言うまでもないので割愛するが、現在のドイツでは、ヒトラーとナチの言葉を口に出すことは禁忌に触れるらしい。

つまりドイツでは、「命を賭して戦ってくれた先人たちのおかげで今のドイツがある」という考え方には至っていないのである。

この考え方について、僕も同意する。

あれほどまでに多くの人が、人ではない扱われ方をし、大量に虐殺されていった事実は、誇りに思うべきでない。触れたくない過去というのも納得である。

あまり知られてはいないが戦時中の日本軍もナチス同様、毒ガスを使用していた事実がある。

化学兵器の使用は、極めて非人道的であり、ジュネーヴ条約で禁止されていて、日本もこれに署名している。

しかし、表沙汰にならなかったのは、東京裁判を先導して行ったアメリカが、当時ソ連と戦争中であったことに起因する。アメリカ側は、戦争で化学兵器を使用できないことを恐れたからである。アメリカはジュネーブ条約に署名していない。

では、話を靖国神社に戻すが、なぜドイツのことは理解できるのに、自国は違うという考え方を持っているのであろう。

日本もナチス同様、化学兵器を実践に用い、虐殺を行った事実がある。

しかし、なぜ、その人たちが祀られている靖国神社に参拝したいと願うのであろう。

なぜ、その人たちのおかげで今の日本があると言い切れるのであろう。

なぜ、戦争を美化しているという意見に対し、心の中では一理あると思う一方で、そうではないと思ってしまうのだろう。

自分の右翼的考え方(日本人が日本を大好きで何がいけないんだと考え方の理由を見つけるために)を論理武装させるために始めた歴史研究は、そもそも考えを根底から否定する物になってしまった。

僕の政治観を見つける思考の旅は、まだ、道半ばであり、果たして答えは出るのかと、いささか諦観の念に駆られている。

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