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度が過ぎた「同調」は「ダメな行為」を後押しする

「どうすればいいか」の本当の相談を聞くとき、気をつけるのが「共感」と「同調」を分けることで、相手の怒りや悲しみを受け止めるのはしっかりやりたいが、「やっちゃダメなこと」の後押しをするのは避けたい。

嫌なことをされてつらい、は「そうだよね」「悲しいよね」と頷くが、「だから○○したい」という話になると、うかつに肯定するのは危険だ。

ネガティブな感情でいっぱいになり、それが攻撃性に変わる、頭に血がのぼった状態になると、人は「正義」に囚われる。
「これをする自分は正しい」「正しいと相手も周囲も認めるべき」と、行為の理由を”自分なりの正義”にするのだ。

気持ちはわかる。
相手に非を責めて謝罪させ、相応の贖罪を求めるのは、被害者なら当然のことだ。
しようとする気持ち自体は間違ってないし、相手は受け入れる義務があるかもしれない。
既婚者の浮気や不倫なら、慰謝料を求めることは認められる。
「救われる自分」を見ないと、心の安寧は訪れない。

それでも、たとえば「息子に怪我をさせて謝りもしない子の家へ押しかけたい」みたいな場合、「そうだね、そうするべきだね」なんて返してしまうと、この”同調”に背中を押されたその人は、正しい行為と信じ込んで本当に向かってしまう。

その結果、相手の状態によってはなかったはずのトラブルや摩擦が生まれる可能性は高いし、押しかけたことで周囲から「ほかに方法があったのでは」と非難されることも考えられる。

「旦那の不倫相手を家に呼び出したい。慰謝料を請求したい」という話に、「こっちにはその権利があるもんね」と先を見ずに”同調”してしまうと、この肯定に勇気をもらったその人がいざやろうとしたら、住所も勤務先も押さえていなかった不倫相手はトンズラして雲隠れ、なんてケースも考えられるのだ。

だから、「共感」は惜しみなく伝えるべきだけど、言動に対しての安易な「同調」は控えるべきだと思ってる。

その結果、想像もしていなかった悪い状況を引き寄せることも、確実にあるからだ。

その「責任」を誰が取るか、肯定するならこちらも責めを負う覚悟を持つのが必須だ。
余裕を失っている相手の、「うかつな言動」を認めるのは、本当にリスクが高いのだ。

「頷いただけ」「背中を押したつもりはなかった」と後で言い訳しても、その言葉が今度は相手にとって「裏切り」になるときもある。
「応援してくれていたんじゃなかったの?」と、失敗の責任をこちらに持ってこようともする。

「同調」は「やっちゃダメな行為」を後押しする危険がある。
続いて、こちらと相手との仲を悪化させるきっかけにもなる。

難しいのは、「同調しないこと」で「冷たい」「わかってくれない」と相手が受け取る現実で、切羽詰まって苦しみでいっぱいの人にとっては、行動を支えてくれない姿が突き放されているように感じてしまう。

こちらが冷静さを取り戻してほしいからあえて避ける「いいとはっきり認めない」ことが、相手には「味方になってくれない」とショックを与えてしまう。

極端な考え方になってしまうのはそれだけ思いつめているからで、「冷静になってね」「少しでもリラックスしてね」とこちらが伝えても、「この人は助けてくれない」の実感を持った相手の耳にはもう入らない。

話を聞いていたけれど相手から突然連絡が途絶えるのはこんなときで、「同調」を得られないのがどれほどつらいかを考える。

誰だって、大変なときは「何でも認めてくれる人」が欲しいのは当たり前なのだ。

自分に対して一緒に怒ってくれたり対策を考えてくれたり、時間を割いてくれる人は安堵であり依存したくなるのも当然で、信じていたからこそ「(自分が考える)肝心なところで背中を押してくれない」姿を見れば、怒りが湧くのだ。

それでも、トラブルならなおさら、行動を起こすときは慎重さを忘れてはならず、それが「自分にとっての正義」であったとしても、やり方を間違えると失敗するのが現実だ。

同調した結果、その人が後先を考えずに突っ走ってしまい、取り返しのつかない事態になりかえって大損する事態など、可能なら絶対に止めるべきだと思ってる。

背中を押したのがこちらと知られたら、それが新しい確執を生むこともある。
「関係ないくせに」「何も知らないくせに」など、ネガティブな感情の波が広がるのは解決をどんどん遠ざける。そういう状況を見たことがある。

だから、安易な同調はしないほうがいい。
冷たいと思われようと、「役に立たない」と言われようと、正しい境界線を引くのはお互いのためなのだ。

冷静さを失っているとき、人は「期待通りのリアクションを返してくれない相手」に簡単に怒りや失望を持つ。
落ち着いていれば、返事をためらうこちらの気持ちを想像することができるし、自分の考えの穴にも思い当たるのだけど、「救われたい」でいっぱいになったときは「叶えてくれない相手」をあっけなく責めるのだ。

人はそんなものだ。

どんなときでも、境界線を忘れないのがお互いのためになる。
相手が私に怒りと悲しみを持って離れていったとしても、「そのときはそれが限界」と割り切るのも、私が相手の問題を背負わないために重要なのだ。

相手のすべてを認め、行動を肯定するのが愛情ではない。
トラブルの解決ならなおさら、「その先」「結果」を考える慎重さが状況を良くしていく。
「やっちゃダメな行為」は確実にあるし、またすぐ考えつくけど、堪えること、”自分が望む本当の結末”の本音をまず知ることが、勝ち筋を歩む指標になると思ってる。

人と関わるスタンスは、自分で決めていくのが最善。

大変なときほど互いの自立が「正解」を引き寄せるんだよ。


安易な「同調」はかえって自分の首を締めるよ、という話。

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