その人に接するときに「矛盾する自分」の話
恋愛でも何でも、強い関心を向ける人がいるのだけどその人に接するときに心がすぐ切羽詰まって気持ちと反対のことを言ってしまう、乱暴な言葉づかいになったり振る舞いがきつくなったり、「こんな自分を見せたい・伝えたい」とあらかじめ思っているにも関わらず真逆の言動をとる自分がいる。
こんな自己矛盾は、本音では心を開こうと思っていないのに無理をしているから生まれるのだと思う。
「心を開く」、自分の感情に素直になって相手に好意や思慕を伝える勇気を持つのは、本当に難しいと自分を振り返っても思う。
まず恥ずかしい、そんな自分の姿を想像すると無垢で純粋だからこそ羞恥心が生まれるし、相手に笑われたり無視されたりする可能性は必ずあって、絶望したらもう立ち直れない。
そんな強い葛藤を自分自身に向けて抱えながら他人に「こう在りたい」なんて願っても、叶うはずがないのだ。
その人といい関係になりたい、リラックスして笑顔で過ごせる間柄になりたい。その気持ちは本物で本心だ。
一方で、そうなるためには相手の存在を心地いいものとして受け入れられる自分の器と、「相手にも等しくそう思ってもらう」ことが不可欠で、自分の思いだけでは実現しないのもわかっている。
だから自分から変わろうと”思う”、まずは自分が素直に気持ちを伝えて相手に受け入れてもらいたいと願う。
その姿勢は間違っていないと今でも思っているし、その結果何度も私は失敗してきたが、それでも、自分に変化を望ない限りは「ずっとそのまま」なのだ。
じゃあどうしていざその人を目の前にするとうまくいかないのか。
さっきも書いたが心を開けていないからで、相手に伝えたいと願いながら反発するのは、「必ず受け入れてもらえる」という保証がないからだ。
「次はこうしよう」と思ってその自分を想像しながら相手と向き合う時点でもう心は緊張しているし、視野が狭くなっているから相手の振る舞いに敏感になる、少しでもこちらを拒否するような態度を見ると途端に気持ちは萎んでしまう。
「こうしよう」と勢い込んで接するから相手にそれを受け止めてほしいと期待が生まれる、でも相手の態度は相手が決めることであってこちらは手出しができないのだ。
会うまでは「こう在りたい」としっかりと考えていたのに、実際は支離滅裂で正反対の自分が出てしまう。
こんな自己矛盾を繰り返していると、心はダメージばかり受けて疲れきってしまい、「できない自分」を見て自信を失う。
嫌な態度をとって相手に与えた印象を思えば「次は」なんて考えるだけでも虚しくなる、「努力したって無駄なのだ」と思ってしまう。
だから私は相手に「こう在りたい」と”願う”のをやめた。
自分に向ける願いは希望のはずなのに、それを自分で覆すような矛盾は何よりも己の弱さに原因がある。
私の場合だが、「こう在りたい」には相手の希望、「相手から見てこう在ってほしい私」の想像が入る。
それは今になって思えば心の境界線を引けていない状態で、同一視、「ふたり一緒が正解」という窮屈な視座なのだ。
どこかで「自分のためではなく相手のため」「相手に愛される自分を見るため」が入る変化は、必ず行き詰まる。
何でかって、「それが成功するかどうかは相手次第」が避けられないからで、「こう在りたい」は自分自身によってのみ確立される状態が自立だと今は思っている。
相手と居心地のいい関係になるために「こう在りたい」と願うのが間違いなのではない、その自分に満足して安らぐためには相手の反応を”決意”に反映させない強さがいるのだ。
相手の反応はこちらでは決められないし強制はできない、それは健全な境界線で、自分だって等しく相手の思い通りの反応を返すなんて無理なときもあって、それぞれ己の気持ちを大事にする姿勢が依存を防ぐ。
それなら、「この人の前ではこう在りたい」と考えるときは、目の前の相手がどんなリアクションを示そうとも揺るがない自信が必要になる。
笑顔になってくれればうれしいが、そうじゃなくて無反応だったり顔をしかめたりするかもしれない、それでも、「私はあなたの前でこんな自分でいたいの」と見せることは、「あなたによって操作されない自分」を伝えることでもあって、この「操作されない」は悪い意味じゃなくて「この自分に胸を張れる」という自尊心、これが「心を開く」だよなと。
相手が必ず飛び込んでくる前提で腕を広げるのではない、自分がそうしたいから手を差し出す、それをする心だけでOKとしている。
これなら相手には常に選択の余地があって、手を取るも取らないも自由だから窮屈さや圧迫感がない、等しく「自信を持って次の選択ができる」んじゃないのと。
このやり方で成功した男友達がいて、その人は依存ぼったりの私を距離を置いて接してくれていたが、反応の薄さにひねくれるのではなく”きちんと話を聴く”ようになって、「こうしたい」を貫く私を見て態度を変えた。
本心を打ち明けてくれることが増えて、会ってもリラックスして話せるようになって、”詰めよう”とする意思のない言葉のやり取りは何時間も続く。
「次に会うときは素直に大事な存在だと伝えよう」ではなく、「この人との時間をまずは楽しんでみよう」「この人の言葉に注目してみよう」くらいの”決意”が、相手にとってはそのまま「大事な存在だと思ってもらえている」実感になる。
人は鏡だから、こちらの態度や振る舞いで相手のそれも変化する。
「私とあなたは違う人間」だから自分の状態にまず責任を持つ、その境界線が相手にも等しく己の有り様に責任を持って関わる姿勢を生むのかもなあと。
その人に接するときに見る「矛盾する自分」は、依存なのかもなと思う。
素直になりたいのになれない葛藤は、「相手の反応ありき」だから消えないのかもしれない。
「次はこうしよう」とか考えず、素の自分で接するのが一番自然なことはわかっているが、相手の存在が大きいほどにそんな落ち着いてはいられない。
落ち着かないから言動がおかしくなる、この悪循環を止めるには、どうしたって相手の有り様と自分の決意を切り離す勇気が要るのだ。
”相手ありき”の「次はこうしよう」ではなく、「自分が落ち着いて過ごすにはどう在ればいいのか」を自分の視点から考える、リラックスしている自分を想像する。
「相手の話に集中できなくてすぐ口を挟んでしまう」「自分たちの状態について話題になると相手を責める言葉が出る」「相手が自分以外の人間の話をすると心がざわざわする」、こういう自分の反応は、相手の存在感が大きいほどに無意識で出てしまうもの。
その自分にストレスを感じているのなら変わることができる、相手の話を冷静に聴けないのならまずは「堪える」意識を持つだけでも在り方は変化する。
「次はこうしよう」を”目指す”から心は緊張する、見るのはまず自分の状態、それは自分への客観視の一つ。
まあどうしたって相手の反応を完全に気にしないなんて無理なわけで、どうあろうともやっぱり相手の振る舞いに動揺はするのだけれど、自分に集中していれば振り回されることは減る、「こんな場面で自分はどうしたいのが本音なのか」に意識が向く。
気にしてしまうのは「好かれたい」があるから当然で、でもその「好かれたい」は自分の問題になるからね、相手の有り様を何でも引き受けて自分の責任にするような在り方は避けたいよねと思う。
男女関係なく、強い関心を向ける人ほど自立した心を持つのが健全さを保つ。
自己矛盾は「相手ありき」で自分の在り方を考えるから、と思えば楽しく付き合っていきたいからこそ境界線を引く大切さがわかる。
居心地のいい関係には常に希望がある、それは依存や癒着では生まれない「選択の余地」で、互いに自由な意思のうえで「関わりたい」と思っているから楽しい提案ができるんだよなと思う。
「矛盾する自分」はダメなわけじゃなくて相手を本当に尊重するきっかけになるよねって話。
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