最適化された人生と衝動に従う人生
5年くらいは行くことはないと思っていた新宿の伊勢丹に半年ぶりに行った。前回は妻と結婚指輪を買いに行き、今回は妻のブーツを買いに行った。
帰りに何か食べて帰ろうということになり、7階の食堂街に行ったがどの店も並んでいたので他で食べることにした。
7階から降りる途中、家具のフロアがあったので寄ってみると、ある一角に見たこともない形の1人がけのソファーがあった。
そのソファーは白地に赤の模様が入った一枚の大きな正方形のハワイアンキルトが上に角をむけ、花びらのように美しい曲線を描いて広がっている。
座面はその真ん中にあり、正方形の上の角にあたる背もたれが体全体を包み込むように頭の上まであって、それと同じ距離、左右に正方形の角が花びらのように広がっている。そのため大きさは普通の1人がけのソファーの3倍近くあり、南国の大きな白い花のように見える。
かなり高級そうな店ではあったが、あまりにも素晴らしいソファーだったので店名も確認せずツカツカと入っていって座ってみた。ハワイアンキルトを使った座面だが、適度な硬さがあり、柔過ぎて体が沈み込むようなことはない。ハワイアンキルトが頭の上まで包み込んでくれるので、座ることで目の前に広がっている空間から仕切られて、守られているような気持ちになる。1人がけのソファーとしてはかなり大きく、今の家に置き場を探すことはできないが、それでも欲しいと感じ値段を聞くと200万円と言われた。
流石に高い、と思ったが、入った店はカッシーナで、そのソファーはカッシーナの一点ものだという。3色で売っていたが、これが最後の一点だという。
200万円という1人掛けソファーとしては規格外に高い値段と、1人掛けとしては規格外の大きさのため衝動買いするわけにもいかず、それから中村屋でカレーを食べて家に帰った。それで終わりのはずだったが、なぜか帰ってからもそのソファーのことが頭から離れない。
店でそのソファーに座った時、妻との一致した意見は、このソファーを買うならこのソファー用の家がいる、ということだった。その家は天井が高く、その高い天井から壁一面がガラスになっていて、ガラスの向こうには広大な森とか突き抜けるような青い海とか圧倒的な風景が広がっている。そして、その風景を堪能するためだけにそのソファーは広い空間にポツンと一つだけ置かれている、という家だ。
そのソファーには、 それくらいの環境が与えられて初めて持っている魅力が全開にできるのだろうと思った。
例えていうならそれは、ランボルギーニ・アヴェンタドールSVJのようなものだ。
SVJはそれまでのアヴェンタドールと違い、高速でコーナーを走行する時、エアダクトの風量を調整し左右のリアウィングにかかる風圧を変えることでコーナーでの安定性を確保する。
だがそれは時速200キロ以上の高速でコーナーを曲がってみて初めて体感できることであり、首都高でその機能を発揮することは永遠にない。
SVJがサーキットでないとエアダクトを調整し限界を試すことができないように、そのソファーは家一件をソファーのために建てないと、持っているものを全開にできない。
しかしそこまでわかっていても、家に帰って部屋を見渡すと、ここだったら置けるかもしれない、というスペースを見つけてしまった。そこには現在、観葉植物が置いてあるが、その観葉植物は枯れかかっている。いつか完全に枯れてしまうのなら、そのスペースに置くことはできる。
そこはリビングの入り口にあたり窓からは遠いが、そのソファーから外の景色を見るのではなく、部屋にいてそのソファーを見るという逆の発想をすれば、置く理由になるのではないか、と思いついたのだ。
確かに200万円は高い。だが美術品と思えば安い。美術品は見るだけだが、ソファーなので座ることができる。あのようなソファーは今まで見たことがなく、これからも見ることはないだろう。一点ものなので、売れてしまえば永遠に手に入らない。
しかし、冷静に考えれば全く要らない。リビングには花びらをイメージし、曲線だけで作られたフランス製のソファーがある。十分に美しく、十分に際立っていて、十分に快適だ。(ちなみにそのソファーは日本でもライセンス生産して作られているが、日本で作られるものとフランスで作られるものは価格は同じだが全くの別物だ。フランスで作ってもらうと1年近く待たねばならないが、柔らかさがまるで違う。一年待っている間、日本製のソファーをお店の行為で使わせて頂いたが、座り心地に感動がなかったので、ほとんど座ることはなかった。そんなわけでフランスから注文したソファーが届いても生地の色が変わる以外は何の期待もしていなかったが、座ると全く違っていた)
そんなわけでソファーにはうるさく、目は肥えている。実は中村屋でカレーを食べた後、大塚家具でソファーを見たのだが、心に響くものは一つもなかった。だが伊勢丹で見たあのカッシーナの一点ものだけは買う理由を無理やり作ってまでも欲しいと思わせる何かがあった。必要とか不必要という理由ではなく、見たこともないほど美しいものがあって、それが金で手に入ることを知ってしまった以上、手に入れなければならない、という衝動に火がついた。
食べるために座る、書くために座るのではなく、ただそのソファーに座る。目的のための手段でしかない座るという行為を目的にしてしまうソファー。因果関係を逆転させる力がそのソファーにあった。
最適化された人生と衝動に従う人生のどちらを選ぶべきか?
人生というと大袈裟で曖昧になる。
人生を部屋に置き換えてみると、最適化された部屋と衝動に従った部屋、ということになる。
今の部屋は快適に暮らすために最適化されている。この部屋にカッシーナの一点ものがあったら、それは衝動に従った部屋だ。
どちらが良いのだろう?
どちらの方が幸せなのだろう?
衝動に従うと部屋は狭くなり、大金も失う。
それでも欲しいものがそばにある。
滅多に座ることはないかもしれないが、大きな白い花として、そのソファーはそこにあり続ける。
一方で、帰りに花屋でブーケを買った。千円近くした。カッシーナのソファーは200万円。200万円でそのブーケは2000個買えるので、200万円あれば5年半、毎日違うブーケを買うことができる。実際には1週間くらい花は持つから、40年近く部屋に花を欠かさない生活ができる。
どちらが良いのか?
40年間、生の花を部屋に欠かさない生活と、ハワイアンキルトの大きな花のような椅子が部屋にある生活。
どちらがいいのか?
また、こんなふうにも考えた。
世の中には2種類のモノがある。
一つは工場で作られた製品。
もう一つは工房で作られた作品。
家の中にあるほとんどのモノは工場で作られた製品だ。
だからこそ、工房で作られた作品が欲しい。植物は一つ一つが作品だが、人が創った作品が欲しい。製品には目的があり、効率という尺度があるが、作品には情熱という目的や効率で測れないものがある。自分の部屋の中に情熱を感じる作品があるというのは素晴らしい生活で、少なくとも今の生活とは違う生活になるのではないか、と思わせる。
だからポルシェのような実用性がある車ではなく、フェラーリやランボルギーニが欲しくなる。
フェラーリやランボは手に入れるにも金がかかるし、維持するのも金がかかる。
だが、ソファーなら一度買ってしまえばずっと自分のものだ。
フェラーリやランボは使うたびに気を使うが、ソファーならゆったりとした気持ちで使うことができる。
そう考えると200万円という金額が高いと思えなくなってきた。
問題は、それを置けるのか、という一点だ。
振り返ると、大事なことは全て衝動で決めている。
最初に自分という枠を見定め、そこに最も収まりがいいものを選んできたわけではない。
今住んでいるマンションは衝動買いだった。
2週間前まで家を買う予定すらなかったのに、初めて乗った路線から見た風景に驚いて電車から降りたらそこにマンションのショールームがあって、間取りが素晴らしかったので2週間考えた末、買った。3LDKで全ての部屋が南向き。自分は家という壁ではなく、光が欲しいのだと悟った。
就職もそうだった。毎週段ボール箱1箱分くらい送られてくる就職案内のパンフレットの中からどこにすればいいのかわからなくなり、ある美しく晴れた金曜の夕方手に取った企業のパンフレットに書かれてきた「毎日が学園祭の前夜みたい」というキャッチコピーに惹かれ、土曜の朝、その会社の面接を受けるため飛行機に乗った。
自分が欲しいのはワクワク。その先の人生に何が必要なのか、そのコピーによって悟った。
そうやって選んだことは正解だったのか?
資産価値で考えると、20年前に都心の駅近のマンションを買っていたら、価格は倍になっていた。
将来性で考えると、30年前に選ぶべき業種はネット企業だ。学園祭の前夜のようにワイワイ大騒ぎしながら仕事をするのではなく、虎視眈々と来るべき時代に準備するべきだった。
しかし、都心の駅近のマンションを買っも、日当たりが悪く緑が少ないなら、今のように朝を気持ちいいと感じることはなかっただろう。今住んでいるマンションは資産価値は高くないが、街全体が遊歩道で繋がれている。
ネット企業に就職していたら、時代の大きな波に乗ったのかもしれないが、それは単に新しいインフラを整備したというだけで、自分の思想信条とは関係ない。少なくとも、バカをやって楽しかった、という思い出は一つもないだろう。
最適化された人生と衝動に従う人生では、どちらか正しいのか?という問いは、おそらく問い自体が間違っている。
衝動に従うことで、人生は最適化されるのだ。
衝動によって、要るものと要らないものの仕分けが一瞬にしてできるのだ。
では、カッシーナの1人掛けのソファーは要るのか、というと要らない。
欲しいのはカッシーナの1人掛けのソファーではなく、そのようなソファーを置く、規格外に贅沢な家。そのような家を建てる街、もしくは国だ。
今の生活はとても楽しい。
それは今の枠内で最適化された生活をしているからだ。
あのソファーを使うためには、今の枠では足りない。
衝動によって枠が壊れ、また新たに自分を創る。
今の枠のままあのソファーを手に入れたら、あのソファーは要らないものになってしまう。
だが、枠を壊してまで欲しいものが、本当に欲しいものだ。
枠を壊さないで得られるものは、実はそのもの自体は欲していない。欲しているのは、その枠自体で、その枠の最適化。
足るを知る、というが、それがわかっていても欲しいものがあるのなら、枠を壊すしかない。
自分を壊して、また創ることができるのか?
衝動が問うているのは、そういうことだ。
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