人が自分らしく学び続けるということはどういうことか

こんにちは。初の投稿です。

School for Life Compathという名の、
北海道の東川町という素敵な町に、大人の学び直しの学校があります。
この文章は、Compathの広報企画として、2022年の秋ごろ書いた文章です。
これからアウトプットする機会を増やしていくべく、
お蔵入りにするのも勿体無いので、せっかくなので投稿してみます。ご笑覧ください。


最近の関心事について、つらつらと物書きをして見ようと思います。

私の問いは「人が自分らしく学び続けるということはどういうことか」です。

自己紹介


はじめに、簡単な略歴を。
社会人6年目で人材系の会社で営業として、人事・組織領域の問題解決の支援をしています。
学生時代は教員を目指していて、大学では英語を専攻し教員免許を取りました。「いい教師とは何か」「カッコイイ大人とは何か」という問いに向き合う中で、もっと教科だけに限らない人への関わり方を学び、具体的に役に立てる力をつけたいと思い、今の企業に入社しました。働く個人と組織のらしさを生かして、前に進めるお手伝いがしたいと思い、日々仕事をしています。
プライベートではバスケットボールばかりしています。一時期監督をやっていたこともありますが、あまりにバスケがしたいので最近はプレイヤーばかりです。音楽も好きで、アカペラやバンドの活動もたまにやっています。

Compathとの接点

■Compathに参加したきっかけ


Compathには2021年の7月のワーケーションコースで参加。自分のこれからの働き方を考える機会になりました。
昔から教育に関心はあって、大学の時に北欧への留学を調べていた時期に「フォルケホイスコーレ」という耳慣れない言葉に出くわしていたので、Compathのことは立ち上がった時期からずっと気になっていました。

参加を決めたのは社会人5年目、とにかく仕事の量にまみれていた時期。新しく引き継いだお客様との関係性がうまくいかない事もあり、協働者や上司に話を聞いてもらって助けてもらってなんとか前に進めるようにしていたけど、責任感というエンジンだけでこの仕事をこれからも続けていくのかと思うと、正直やれる気があまりしませんでした。

リモートワークが始まって一年半弱というタイミング。日常が仕事で埋め尽くされていて、毎朝Teamsの通知音が自然と聞こえるくらい、自分の頭が窮屈になっていくのを感じていました。普段とは違う環境に身を置いて、少しでも余白を生活の中に作りたかった。一度俯瞰する時間が欲しかった。そんな思いで参加を決めました。

■Compathに参加した後の学び


大きくは2つのことに気づくきっかけをもらいました。

①日常の中に問いを持ち、誰かと会話をすること。

仕事をはじめとして日常に埋没すると、身の回りのことに関心を持てなくなって、内向きな思考に陥ることがあります。
そういう時は、問いが立てられるだけの余白を意図的につくること。そのために、ちゃんとNoと言える自分であること(できない約束はしない)。自然に触れたり、ジャーナリングで自分の思考や気持ちを整理すること。これらを通じて、周囲に関心を払える外向き思考であろうと努めるようになりました。

②肩書きや属性からではなく、相手のらしさを見に行こうとすること。

Compathで過ごした時間で印象的だったのは、参加者のみんながどこで何をやっている人なのかよく分からなくても、こんなに気持ちよくいろんなことを巡って対話ができるんだな、ということでした。
日常でもそんな風であれたらいいなと思うようになりました。

■東川から戻ってきて、最近思っていること


ここからは最近の私の問いである「学びとはどのような営みか」ということを考えてみたいと思います。

私は人材開発や組織開発を扱う仕事をしているので、企業における学びというのは日常的に触れているテーマでもあります。

変化が激しく少し前に通用したものがあっという間に別のものに置き換えられてしまい、気づいたらスタンダードが変わっているようなVUCAの世界に生きている私たち。常に変化に対してアンテナを張り、これまでの常識や慣性を疑って、学び続ける必要がある。日本型の雇用システムが破綻し、いつまでも自分の背中を企業に預けることができなくなった今、学び続けることで食っていけるようにならなくてはならない。

そんな話は新聞でもよく目にするし、仕事の中でも日常的にしています。

■学びという言葉の見つめ直し


でも、はたと考えると、「学び」ってそんなにしんどい空気を纏ったものだったっけ?と思います。
学生の時の勉強はちょっとしんどかったかもしれない。でも好きなことを自由に調べたり探求したりすることには、自分のワクワクもくっついてきていたのでは。そんなふうに思います。

分かることが増えたり、できなかったことができるようになったり、借りてきた言葉しか使えなかったのに自分の言葉で話せるようになったりすることには喜びや面白みを感じられる自分がいます。そういった自分の学びが、誰かにとっての価値や救いになった時には、格別に嬉しい気持ちになります。


そこで思うのは、学生でも、社会人でも、「教育」と「学び」という言葉は意図的に使い分けた方がいいということです。

「教育」と聞けば、ある特定の対象に対し、何かしら外部的な基準に沿って意図的・計画的に働きかけることで、知識や技能を伸ばそうとすること、を連想します。
対して「学び」は、内発的な情熱や関心・好奇心からくる自らの問いに従って、何かを調べたり経験したりして、自分なりのメガネをかけてその事象を振り返ることを通じて得られていくものだと思います。


そう考えると、学びとはとてもパーソナルなものであり、その人の「らしさ」が詰まったもののように思います。
何を学ぶか、どう学ぶか、どう振り返るか、そこから何を得るか。全てに自分が持つベクトルが影響する。読書は自分の心への水やりだと誰かが言っていっていましたが、学び続けるということは、自分の中にあるベクトルに、少しずつでも栄養をあげて育んでいくことなのだろう、と思います。

むすびに


あらゆるものを通じて人と繋がれるようになった今、人の目を気にしないということが難しくなっているように思います。併せて、バタバタと過ぎていく時間の中で、自分の感情に思いを馳せたり、自分が大事にしようと思うことを大事にすることが難しくなっているのかもしれません。
シンプルなことであっても、あまりに余白がないと、自分の中にあったベクトルが、気づかないほど小さくなってしまったりします。忙しいと心を亡くすという書くのはそういうことなのかも。そのくらいノイズが多い世の中を生きている気がします。

一人でそうあることが難しいので、私たちは対話や交流の場を求めるのかもしれないですね。

何かを面白いと思う好奇心や、もっと知りたいと思う関心、こうありたい・こうあってほしいという願い。
そういったものから、日常的な変化や楽しみは生まれるもののように思います。別に誰かに自慢できなくたっていいから、知ったかぶりをせず、少しずつでも学び続けていくことで、自分の感受性を育てていきたい。そんなことを思っています。

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