はじめまして。僕は男子の看護学生です。看護と言うと女子のイメージがあると思いますが、僕のように男子でもなりたいと思う人が増えているそうです。ハーレムじゃん!などと言ってくる人もいますが、僕にとっては苦行以外の何者でもありません。家は男子家系、男子おおめ中学でサッカー部所属という男子ノリの塊のようは僕は、高校に入ったらモテるものだと思っていました。しかし、女子と話す経験があまりにも少ないのと、男子ノリが通用しないことを高校生活で痛感しました。なので今の僕は、『女子が苦手なのに女
昔からサッカーを見るのは好きだったけど、ヨーロッパとかの強豪チームはなんであんなにすぐスター選手を出場させなくなっちゃうのかな思っていた。前のシーズンで得点王だった選手とか、今までものすごいチームに貢献してくれた選手ですらちょっと成績が悪くなったらすぐ試合に出してもらえなくなり、しまいの果てにはチームを辞めさられられたりするのが不思議で仕方なかった。今思えば、莫大なお金とコネがあるからこそ『今は40点のパフォーマンスだけど前は100点を出せた』という過去の栄光に縋るという意味
ネガティブをやめたいと思っていた。よくないものだと思っていた。 最近、脱ネガティブが進んできた気がする。去年の5月ごろに彼女ができたことがきっかけだと思う。その子とはお別れしてはしまったが、フラれた訳ではなかったので、人に認められたと言う感情だけが育ったのだと思う。 脱ネガティブを喜べると思ったが、そんなことはなかった。 皮肉なことに、自分にはネガティブな方が(自信のない行動)をした方が似合うのだとわかった。 後輩ちゃんに、最初の方はよく話しかけてこられたから、距離を置
他人からのマイナスイメージを受けないで生きてくなんて無理。誰かしらには、嫌われたりするのはもうしょうがない。 その嫌われたって事実より、今まで認められた自分だったり、褒められた自分だったりを糧にすることができるから嫌われてるって事実を気にしないで生きてけると思う その褒められることってのは、外見だったりユーモアだったり人の良さだったり、勉強だったりいろんなことがあると思う でも、俺みたいなもんは、糧にできることがないの 人生の初めの方にお前は変わってる、ひねくれてる
ずっと好きだった子の結婚式に呼ばれた。 式中の記憶はほぼない。友達曰く、虚な目を似ていたそうだ。 式が終わり、その子と旦那さんが僕たちのところに挨拶に回ってきてくれた。なぜだかわからないが、僕は涙を堪えていた。悔しいわけでも悲しいわけでもない涙だった。 挨拶をもらったのち、5分くらい雑談をしてた。僕は、軽い相槌以外には一言も言葉を発せられなかった。口を開くと、君のことが好きだと言う言葉が出てしまう気がしたからだ。その言葉がお茶を濁し、空気を壊すことをわかっているからこ
僕を構成する三大要素は、見栄、ひねくれ、嫉妬だと思う。ただ最近は、嫉妬の存在を忘れていた。わすれていたというより、無意識的に隠していたと言った方が近いかもしれない。 昔から、自分の持っていないものばかりが輝いて見えた。何かに憧れて、その人と同じものを持ったとしても、自分が持った途端にくすんで見えた。人に憧れ、その憧れの対象とは似ても似つかない自分に嫌気がさしていた。 いつ頃からか、その憧れは嫉妬になっていった。おれだって本当は男女8人くらいでキャンプとかしてみたいし、クラ
たまに、自分の人生を俯瞰的に、言うなれば物語的に見てしまうことがある。自分がしたいと思ったりやりたいと思うことではなく、こーゆー展開もありえるな、逆にこーなったら面白いなみたいなことを生活の中で思うタイミングがある。 わかりやすく言うと、ドラマチックにしようとしてしまうと言うことに近しい気はする。ドラマチックに『なってしまう』ならばいいとは思うが、ドラマチックに『してしまう』のはあまり良くないのではないかと思う。 思うだけならいいのだが、それを行動に移してしまうことがあ
ONE PIECEの中に「勝者だけが正義だ!」と言う名言がある。僕はワンピースが好きで小学校の頃から読んでいるが、当初読んだ時にはちゃんとした意味はわかっていなかった。勝ったやつはかっこいいみたいなことかなー程度だった。 この前、学校で人間関係論という授業をやった。その中で、高校時代などに僕が「ナナメだ」や「うがった目線」と言われていたような考え方について学んだ。初めて自分の考えが正解として扱われたのだ。 勝者というのは色々な場所で持つ意味を変えると思う。僕たちが
僕は、言われたことをできることを長所としていた。なので、バイトなどの社会と関われる場では自分の長所を生かすことを意識して動いていた。その中で、言われたことしかできないのか?と言われることが多々あった。 今となっては怒られていると言うことが認識できるが、昔はできなかった。なぜなら、「言われたことはできている」と抑えなおされた気にしかならなかったからだ。 そもそも言われたことしかできないって言葉自体の意味が矛盾を宿してると思う。この言葉を言うときには、大抵が叱るときに言うと
他人に心の底からおめでとうと思えたことがなかった。これを話すと、人としてやばいと言われたことがある。でも本当にそうだろうか?他人を心の底から褒めることができる人は、今の自分に不満がないからなのではないか?とおもった。それか、自分のことより他人のことを尊重できる人だと思った。 さっき、親友の2人が第一志望に合格したということを聞いた。初めて心の底からおめでとうと思えた。と同時に気づいたことがある。自分のことに不満がないわけでもなく、他人のことを第一に考えられる人間でもない僕
僕は自意識過剰だ。自分で認めたくはないが、客観的に見て認めざるを得ない。自意識過剰だと言うと、大人しくて周りをしっかり見れる人だねと言う印象を持つ人もいると思う。 どれくらいの人が該当するかわからないから大きな声では言えないが、その思考をする人はセンスがないなと思う。そもそも、自意識過剰な人(僕の場合)は他人にも刃を向けてるから、自分に返ってきてるだけだからだ。 例えば、美容室でモデルの写真を見せてオーダーできないことや、対していい顔でもない自分が、自分から女子に
面接や自己紹介で特技を聞かれるとすごく困る。 そもそも、自己申請で自分の優れているものを出す、ということに違和感を覚えた。自己申請するということはよっぽど自信がないとできないと思う。 自分の根底にもある自意識過剰と相まって、モヤモヤすることが多い。かと言って、特技がないということや、その場に則してない物をあげるのも尖っている印象を与えてしまって良くないとも思う。 なので悩みとしては、具体的な内容を提示しつつ自分の中で許せるものは何かということだ。そのためには