いろいろ考えるところあり
年齢が高くなるって、穏やかに生きていけるかと言うとそうでもないらしくて、結構人間関係も、上下付けたい年頃になるらしくて、案外嫌な年頃だとなと思うことも然り。子供や孫の数、その出来、自分の生活レベル、健康不健康。差別化できることは山のようにあるらしい。
全て良い出来のひとは、余りいないのか、蚊帳の外なのか。わたしが思うにきっと蚊帳の外なのだろう。そのレールに乗らない人もたくさんいることにはいるのであろう。きっとそんな人にはこんな悩み、お馬鹿さんだなぁと思えることなんだろう。
それを考えると、そんなこと低レベルと言えば低レベル。んーなるほど。
第一、障害者と呼ばれる人間をその競争下に勝手に組み込み最後部につけようと言うのが間違い。昨年のパラリンピックをご覧になったかな。
多様性と言うのは、何か考え直したりしたのかな。いろいろ考えてしまう。
わたし自身思い返してみれば、病気を発症したのが平成13年頃。ほぼ20年は掛かっている話である。統合失調症を知らない方も多い。脳の障害なのである。そして服薬している薬は、糖尿病になりやすい薬なのである。きっとそう言うこと言っても分からないだろうけど。わたしは努力していない訳ではなく、ここまで来るのに考えられないくらいの時間をかけて、治そうとし努力して、自分でも理解しようとした結果が「いまの自分」である。
それを一部の人は、全く理解しようとしていないのだから、調子狂う。
友達に知り合いに親戚にそう言う人がいるってことを考えないってことは、しあわせ過ぎる。すごくある意味良い人生だと思いすらする。
だから誰のせいでもないのだけど、ちょっとだけ立ち止まって、考えて見てみる余裕があれば、もっとあなた方の人生も幅が出てきて、素敵に見えるんだろうけど、、、、。
と、思うのだが。
どうしたら、自分の病気のこと理解してもらえる?
人びとの忌み嫌うだけじゃなく、知ってもらえることとなる?
ある時突然、自分のこと、自分の家族のこと、自分の周囲のひとのこととなるのかもしれない。いろいろ考えてご覧。
誰にもあるリスクなんだよ。がんよりは少ないけど。
きっとならない人の方が多いんだろうなぁ。人口の数%だもんね。でも3クラスにひとりはいる病気なんだよ。もっと考えてよと思う。ただの変わり者ではなくて、気がついたら闘病で10年たち20年たち、それでも闘って。それでもなんとか頑張って生きているんだよって。
周囲のひとが結婚して、子供産んで、育ってて、とたいへんと言うけど、そんな人並みな生活もできず、ずっと20年闘病してきた自分の存在価値ってないの?
新年早々重くなったけれど、ひとり考えてみました。
いま思うのは、この枠すらも個性と捉えて、お互いを受け入れてくれる生活環境。そうすれば、孤独感も人生を嫌悪することも無くなる気がする。