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植物に癒される

あまり若い頃には興味のなかった植物。

どうしてこんなにも癒しとなっているのか。子供の頃には朝顔の成長日記を書く宿題などがあったと思う。すごく苦手で、成功させたことがなかった。あんな簡単な朝顔ですらだ。それを考えるとすごく人間的に、のんびりになったのでは、と言うことが挙げられる。

気が長くなったのだ。それに団地に住んでいるため、動物が飼えないと言うハンデ。これは随分大きいと思う。本当は猫とか犬を飼いたかった。そのため植物に流されていったのかも。考えてみたら、いろいろ考えられるが。

亡くなった母は、植物が好きな人だった。庭には柿と梅の木があった。柿は種から植えて、梅の木は鎌倉の大船にあるフラワーセンター(植物園)で苗を買ってきて植えたものだった。定植はわたしがやったのだが、その後の水やりは、丁寧に母が行っていた、普段は朝、一回。夏の暑い日は朝と晩の2回、丁寧に水遣りをして、どちらも実がなるほどに育て上げた。

桃栗三年、柿八年。と言うくらいだから、気の長い話である。柿の木は、母の亡き後、巨大化しご近所迷惑と言うことで伐採してしまったが、梅の木は、残してある。でも弟は水遣りをしたり肥料を与えたりしないから、梅の方もひねくれて花を咲かせないだろうと、最近では踏んでいる。見る人のいなくなった梅の木だ。

その木もかつては、家の庭のなかでシンボル的存在であり、母と父で剪定をし、水や肥料を遣り、受粉させ梅の実を収穫する。そして冬にはメジロやヒヨドリなどの小鳥たちを集め、春には花を咲かせる。そんな四季織な生活を堪能していた。これは母のお陰だったのだと、今なら気付くことができる。

繊細な母の気持ちが、痛いほど伝わってくる。

母もまた植物に、あの庭の樹々や草花たちに、癒されていたのだ。そしてわたしたち家族もそれに癒されていたのだ。

だからかな。今日も朝はやく起きて、プランタの土が濡れているか居ないかを確認しながら、水を遣り、実を付けたら肥料を遣る。そして脇芽を欠き、その成長を眺める。そのどれひとつをとっても、無駄なことはなにひとつなく、その過程こそが重要なんだと言うことを昔から知っていたように。

今日も早起きして、水を遣る。


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