見出し画像

あの夜明けの空を、忘れることができない



2017年の秋、初めて生きてる人間を好きになった。


モンスターによる懺悔みたいな出だしになってしまったが、いわゆる"生の推し"という存在ができた。
好きな漫画が舞台化され、それを観に行ったTDCホールの観客席でのことだ。双眼鏡を通してみたその人は"推し(キャラクター)"の姿をしており、スチールで見た印象とは打って変わって生きている人間の鼓動や体温すら感じられた。


「生きてる……動いてる!!本物だ……!!」という衝撃が全身を駆け巡った。雷に打たれたかのようだった。客席が暗くて本当によかった。
双眼鏡を構えた私の全身は、決して比喩などではなくガクガクと痙攣していたと思うから。
その"推し"がはじめてスチールで発表されたとき、正直そんなに興味を惹かれたわけではなかった。
漫画原作の舞台を観たのははじめてではなかったし、今まで観た舞台にも、容姿が飛びぬけている役者たちはたくさんいた。

それでも「受肉」という言葉を五体で感じたのははじめてだった。


幕が閉じ、ぞろぞろと退場する人の波に乗りながら、私は隣で見ていた友人に「推しが生きていた」という話を捲し立てた。
一緒のものを観ていたのでそんなに熱心に説明しなくてもわかる、そう宥められながらもやや引いた顔で私を見つめる彼女の瞳には、すっかり気が狂った私の姿が映っていた。


”推し”はデビューしてまもなく、過去の仕事も多くはなかった。彼のことが知りたい。恐ろしいことに、この時代彼は個人のSNSアカウントを持っていなかった。
知りたい。でも知ることができない。その枯渇は、オタクたちに火をつけた。


同じ経緯で彼に落ちた仲間たちと数少ない情報をかき集め、たまに事務所のTwitterで更新される写真に沸き立ち、毎日彼のことを考え続けた。
彼の好きなところを話したくて仕方がなく、別ジャンルどころかオタクでもなんでもない友人を捕まえては彼のプレゼンをした。
みな優しいので聞いてくれたが、今思うと全員何かにおびえたような顔をしていた気もする。


舞台が無事終わり、彼はInstagramをはじめた。大喜びだったが、彼がアップするのはセルフィーではなく飼っている愛猫の写真、趣味だという折り紙の写真、家にある将棋盤の写真、そして
登った山の写真だった。それでも飢餓状態の私達にはありがたかった。折り紙が乗った彼の手の大きさや陰の映り込み、推しのいない風景写真に向かって可愛い可愛いと泣いて喜んだ。


彼の一挙一動に夢中になり、半年もした頃だろうか。新しい舞台への出演が決まった。また彼の姿が見られる。歓喜した。
また、その舞台にあわせてイベントも決まった。忘れもしない。
新宿・歌舞伎町の小さなトークライブハウスでの、オールナイトイベントだ。


酒が飲めない私は、夜遊びをしたことがなかった。夜は普通に寝たいので、何が何でも家にいたかった。
そんな人間が推しを見るために歌舞伎町でオールナイト。特別な夜になることは間違いなしだった。
慣れないチケットの争奪戦。オールナイトを乗り越えるための準備(主に昼寝)。様々な困難を乗り越え、私はライブハウスへ向かった。


ライブハウスは小さく薄暗く、壁面にはサイケデリックなイラストが描かれており、ネオンサインに照らし出されていた。

歪んだ東京タワー、エヴァンゲリオン初号機みたいな色をした富士山、股がん開きした女。

この前に推しが立つのか、と思うと何とも言えない気持ちになった。もうすでに夢を見てて、起きたら熱が出てるのかもしれないと思うほどの光景だ。今までネットでしか話したことがなかったオタク仲間と邂逅できた興奮。そして少なくともこの建物内に推しいるのだと思うと心臓がドクドクと音を立てていた。


もう間もなく開始、というタイミングで駆け込んできたのは仲間のひとりだった。「あ、ひらやさん?初めまして!」と笑顔で交わした握手は血でにじんでいた。「さっき転んでホストに助けられた」と莞爾として笑う姿はどう見ても酒が入っており、底抜けに明るい彼女を私は一瞬で好きになってしまった。
会場の照明がふっと落ちる。私は「ヒュッ……」という悲鳴になり損ねた声が漏れ、血塗れの手を握り締めた。


舞台端の小さな階段から一列に並んで登場する俳優たち。その一番後ろに推しはいた。


生の迫力がこんなにすごいものだとは想像もしてなかった。私の口からは「うわああ」とも「ウオォォ」ともわからない嗚咽が垂れ流れ、目からは興奮で涙がにじんだ。
TDCホールの2階席よりずっと近い距離でいた推しは、とんでもなくスタイルが良く、手足がスラリと長く、とにかく顔が小さくてとても美しかった。サイケデリックな壁の前に立つとその美しさは際立った。
数少ない照明に照らし出されて彼の肌は光かがやいていたし、髪の流れのひとつひとつが愛おしかった。また「めちゃくちゃ不安です」という表情がにじんでいるのも心の奥の何かを掻き立てた。


主に進行を担当する先輩俳優に振られるたびに小さな声で受け答えをする彼の声を拾うため、私たちは真剣に耳を傾けた。英語のリスニングテストの時だってこんなに本気を出したことはない。
マイクがこんなに役に立たないことってあるのだろうか。


せっかくなのでと乾杯のドリンクにアルコールを注文する先輩方に続いて「ジンジャエールで」と言った推しのかわいらしさに噎び泣き、みんなおかわりはジンジャエールを頼んだ。
ストローを咥える姿を見て「飲んでる!!本当に生きてるんだ」と感動し、あわよくば何か食べてくれと願ったが緊張しているのか何も注文はしなかったように思う。


イベントの内容は割とまったり進み、舞台の告知をまじえていろんなトークが飛び交う。些細な情報すら嬉しかった。

折り紙や将棋盤の写真を見つめていた時間を取り戻すように推しの姿を見ていた。

イベントが終わるころにはもう4時を回っていた。時間がたつほどに推しの瞼は重たげで奥二重になっており、対して私の目はバキバキに冴えていた。


お見送りをしてくれるそうなのである。モーニングがいただけるとのことだった。


食いしん坊な私ではあるが、この時ばかりは「え~モーニングって何もらえるのかな?」と考える隙などなかった。この距離でさえ近かったのに、対面して正気を保てるのだろうか。


出口に一列に並ぶ俳優たち。

一人目の俳優さんから袋を受け取り、二人目の俳優さんが小さなパックジュースを入れてくれ、三人目の俳優さんが袋タイプのスープを渡してくれた。
ぞろぞろと横に流れながら「配給みたいだ」と思った。顔をあげるとそこに推しがいた。バナナを手にしていた。
前に立つと彼はすでにパンパンになった袋を懸命に広げ、大きな手でバナナを詰めてくれた。一生懸命だった。
無事に詰められた安堵からか、彼がほっとした笑みを浮かべて顔をあげる。

はじめて目が合った。

私はあまりのことに何も言うことができなかった。




会場から出ると、あんなに真っ暗でネオンだけが煌々と 光っていた新宿の空は、深く美しい青に満ちていた。


ビルの向こうに朝が見える。感動を分かち合って仲間と別れ、駅に向かって歩き出した。
始発はもう出ていた。車両にはひとりだけ泥酔した男性がいた。シートを満遍なく活用して死んだように眠っている。


扉が閉まり、電車が走り出す。車窓から、新宿の朝が見えた。電車が進む方向に向かって青のグラデーションが広がっていた。
NHKドコモ代々木ビルをはじめとしたビル群が、旭日に照らされてうすいオレンジ色に染まっている。ビルの足元がぼぉっと白ばんで、幾多もの光の筋が射していた。


同じ車両にいる男性がまだ寝ているのを見て、モーニングセットの袋から菓子パンを取り出し、一口かじった。
企業が経営をすでに諦めてしまったかのような味のするメロンパンだった。ボソボソで、ただ甘いだけの粘土のようなそれを、私の人生で一番美しい風景と共に呑み込んだ。


ただただ体は重く、頭がぼおっとしていた。眠くてねむくて、なんだったらもう夢の中に居るんじゃないかと思いながら家に帰り、シャワーを浴びてベッドにもぐりこんだ。同時に家族が起き出す音が聞こえた。


昼過ぎに目が覚めた。
リビングには私が置きっぱなしにしていたモーニングセットがそのままの姿で残っていた。袋からバナナを取り出す。


貰った時にはこの上なく艶やかだったバナナは、彼の手を離れて早くも黒い斑点が浮かび上がっていた。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?