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学校の教師の仕事にキリがないのは何故か?

森信三『修身教授録』致知出版社 第36講 誠

学校の教師の多忙化は深刻なレベルになっている。
過労死ラインでギリギリで働く教頭先生。
生徒指導の問題が起これば、遅くまでその対応に追われ、授業準備が全くできなくなる先生。
部活動で6時から自分の仕事を始め、土日も仕事をしている部活顧問の先生。
多忙化が深刻な現実を招いている現実の例はあげればきりがない。
それを支えているのが、「子どものため」というキリがない情熱・責任感などだと思っている。

私は、子供たちと行う、授業の準備に膨大な時間をかけてきた。
しかし、この準備の時間が本当に楽しいから苦にはならなかった。
準備が楽しくて、授業も楽しくて全く苦にはならなかった。
研究授業や、公開研究会になると、もうお祭り状態だ。
授業フェス、授業祭りだと思ってやってきた。

いい授業を子供達とできるようにするために、学級経営など目の前の授業以外の仕事にもただひたすらに打ち込んだ。
子どもの好きなものを把握する、子どもと笑顔で話す、学級に文化を作るための活動をする、自治的なクラスになるような手立てをうつ。
時間があればセミナーに出かけたり、書籍を買って学んだり、全て自腹だが全く嫌ではなかった。

子供たちの成長を見て、それを保護者と共有して・・・
そんな時間が私を支えてくれていた。

研究授業では、子どもの考えを予想し、ここでこの資料を出したらこういうだろうというものを指導案に記載していく。
そしてその後の子供たちの学習がどのように展開されていくのかを綿密に考える。
そして授業に臨む。
それでその綿密に考えた指導案の不備に気づいたり、指導を受けたり、さまざまな角度から検討を行う。
まだ先があるのかよ、というくらい完璧な仕事は教育においてはないのだ。

要はキリがないのだ。
これでOK!これくらいにしておこう、というのは、時間やその時の状況に応じて教師である自分自身が締め切らないといけない。

が、同時にそれだけに、この誠の境地には容易に至りがたく、実に至難なことだと思うのです。と申すのも、お互い人間の誠には「もうこれでよい」ということはないからです。すなわち、「もうこれなくらいならよかろう」と腰を下ろしたんでは、真の誠ではないからです。真の誠ととは、その時その時の自己の「精一杯」を尽くしながら、しかも常にその足らざることを嘆くものではなくてはならぬからです。

P250

本当にその通りで、私はこの制約ができればできるほど、誠になれなくなっていることに気がついた。
授業・学級経営だけに打ち込むことは物理的に不可能になるのだ。
もちろん実力もついているので、時間をかけても到達できなかったところに自身が成長しているので、圧倒的に若い頃よりいい授業ができるようになるのだが、まだ先があることがわかっていながら、それはいいか、とやらなくなる。

教師生活後半になると、あれだけ準備してきたことも先が見えてやらなくなってしまった。
年と共に、やらなければならないことが増える。
学校では、〜主任であり、家では父であり夫であり、両親のことや義父義母のこともある。
前と同じでいいか、となってしまうことも出てくる。
地域でも、研究会でもさまざまな場における仕事もある。
そうなると全てのエフォートを一つのことにかけることはできなくなるのである。
誠を尽くし切ることは本当に難しい。

しかし、その時間をやりくりしながら先生たちは必死で誠を尽くそうと、現実の問題に向かい合って仕事をしている。
私もそうだった。
教師は、子どものために仕事をしている。
だから、子どもの成長を感じたり、保護者から感謝されたりすると、それまでの苦労は全て帳消しになって仕事に臨むことができる。
私自身、できる限り時間を産む努力をした。
朝は4時に起き、英会話や読書や授業準備など出勤前に学ぶ。
学校では定時までと決め、子どもたちとの時間を過ごす。
そして帰宅後は、父、夫として家族のために時間を使い、9時には絵本を読んで子供たちと寝る。
週に何回かは放課後に学習会に参加する。研究会の仕事もする。
土日のどちらかはセミナー等に行って学ぶ。
・・・
そうやって時間を産み、ひたすらに打ち込んだ。

誠を尽くした先のやりがいを教師は知っている。
子どもの成長、保護者からの声、そういったもので教師をやれている。
そのためには努力を惜しまないのが教師なのだ。
しかしながらその誠を尽くせば尽くそうとするほど、現実の壁にもぶつかる。
至誠というのは本当に難しい。
教師の仕事はキリがない。

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