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教科書にこめられた先達の魂

森信三『修身教授録』致知出版社 第37講 死生の問題

啓林館HPより https://digi-keirin.com/r6-dtext/sansu.html

教科書はすごい。進化もすごい。
これまでやりたかったことがどんどんできるようになってきている。
また、教科書に載っている、例題、類題、練習問題の1問1問。それから学習の助けになるような登場人物の吹き出し。これらはすべて、先達である、先輩教師達・研究者たち・教科書会社の人たち、教育関係者たちの実践が土台となって構成されている。
すぐれた実践を生み出した先達、算数や数学の研究に没頭し、子供のために尽くしてきた人たちの努力の結晶だと言える。
考えつくされ、その時、その時代の最適解を探した知恵の結晶でもある。

私は教科書に敬意を払っている。
教科書に敬意を払って、授業で使用し、できる限り、子どもたちと教科書を使い倒したいと思ってきた。

さて、その先達はなくなっている人もいれば、ご存命の方もいる。
いや、生きている方も、間違いなくなくなっている先達から学んできたのだ。
その教師たちの努力のリレーで教科書が成り立っているのだ。
死してなお、後世の教育に貢献していった先達が山ほどいる。

ここにおいてか、真に死を超える道とは、畢竟するに市に対する恐怖の消滅する道ともいえましょう。すなわち真に生きるということは、死に対しても、自らをもって瞑すべしとなしえるような道を言うのであるのであります。
・・・中略・・・
そこで純粋にご奉公ということになりますと、どうしても、私は死後のご奉公の他ないと思うのであります。それゆえお互い生きている間は、いわばこの死後のご奉公のために、その準備をしているようなものとも言えましょう。

P259~261

先達の死後のご奉公たる教科書。
つまり、教科書にはその人たちの魂が込められているともいえるのではないだろうか。

そう思うと、謹んで使わせていただく、という心持がする。
きっと厳しい批判も受けたことだろうし、厳しい指導も受けたであろう。
同僚と共に、理想とする授業を目指して汗をかき、子供もと共に切り開いてきた実践が教科書となって結実しているからだ。
その実践が後輩たちにつながれ、現在の教科書になっている。

さて、その優れた知の結晶である教科書を使わない、という自治体・学校もあるようである。
先日、大学生と教育実習前の事前指導で算数の模擬授業の指導をした際、「私のボランティアで行っている学校では算数の教科書は使わないのです」ということだった。
信じられなかった。
悲しかった。
なぜ、先達が切り開いてきた知恵を用いないのだろうか。
数多くの失敗から学び、作られたロジックを用いないという意味が分からない。
その時その時のトッププロたちが精選して作り上げてきた教科書を使わず、素人同然の教師が教科書を用いず、ロジック、問題も適当に作り、ということだとすれば大変に悲しいことだ。
教材となる問題の配列、問題の難易度、すべて計算されている。それはすべて先達の失敗や成功を経てきているのだ。
それらを生かさず、また失敗を重ねるのは、何たる愚策かと思う。
トッププロたちも、失敗を重ねてきたのだ。

私は、教育実習生を担当した際には、必ずこのことを話した。
教科書を用いて、子供たちに一斉指導ができ、そのうえで様々に自身で実践を積んでいってほしいことを話し、指導してきた。
それだけの価値がある。
教科書には。

教科書は一つの教材に過ぎないかもしれない。
数えきれない、先達たちの実践、思いが叩き込まれたものに敬意を払わずにはいられない。

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