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h026 『自伝的に記述されたビデオゲーム再読』序文ラフ

改めて書くと、『The Haunted and Intimate World of '90s Japanese Video Games 自伝的に記述されたビデオゲーム再読』という本をこの夏が終わるまでに発行する(予定)。序文めいた文章を書いたが、とっちらかったので、ここから修正というか添削をしていかねばならない。が、作業進捗というかやる気があることを示すためにも、ここにラフとして転載する。要約すると、かつて没頭しただけでなく今になっても自分に憑いて離れないゲームソフトたちと、それを遊んだ当時の記憶を辿り直すという趣旨です。

収録章

  1. Another Side of The Earth ロール・トリッピング『MOTHER2』

  2. Time is the Scar 時は傷跡 『ゼノギアス』『クロノクロス』

  3. Weird is Wired モニタの向こうにあるごとく『serial experiments lain』『ROOMMANIA #203

  4. Nostalgic Eden ノスタルジック・エデン『グランディア』『倫敦精霊探偵団』『オアシスロード』

  5. Retromania レトロの達人 『beatmania』『popn 'n music』

  6. Pulp Fiction シネマはゲームのためにある 『双界儀』『花と太陽と雨と』

  7. Exodus 大脱走 『ICO』『ブレスオブファイアV ドラゴンクォーター』

表紙

 この本は90年代と2000年代前半に作られたいくつかの日本産ビデオゲームと、それを取りまくノスタルジーについて書かれている。最初に宣言しておかねばならないのは「ノスタルジー」とは書き手の、つまり私の記憶に限定されたものであるため、読み手と共有できるように定義するのは難しい。しかし、「こういったものとは違う」という逆説的な表現くらいならなんとかなる。たとえば特定の世代の幼少期に流行った玩具やフィクションのリバイバルを支えているものは、この本が目指すノスタルジーとは似て異なるものである。
消費者へ懐かしさというエモーションを与えることに献身的な商品は、それはそれで一つの目的をもっている。任天堂を例にするなら『ファミコンミニ』からニンテンドーダイレクト上の配信まで、フォーマットを飛び越えながら過去の作品が再生産され続けてきたことに顕著である。
昨今ではよく目に入るピクセルアートやトゥーンシェーディングなど、かつて通過されてきた表現を用いた「最新作」は、作り手たち本人からすれば「現在にないもの」を目指した結果として、過去の拙さやキッチュさにたどり着いたのかもしれない。しかし、売る側にとっては大した問題ではないのか、ただ「懐かしさ」が喧伝される。
 私自身、懐かしいという感情が先に来てしまうことには抗えない。それくらいにビデオゲームは私に根差している。だが、ノスタルジーとは特定の条件の組み合わせである、と言わんばかりの形式化には逆らっておきたい。ルール、色調や映像表現、流れる音楽、舞台設定、ストーリーといった諸要素に要約できるものなのだろうか。自分の記憶とは、わが人生のノスタルジーとはそんな簡単に解析できてしまえるものなのか?そんなはずは絶対に、ない。筋金入りの「懐かしがり」であることを認めたならば、過去の記憶を辿り、現在に「それ」がないことを証明するのみである。埋められない記憶の穴を現在から覗き込んでみれば、未来が見えるかもしれない。
 ここまで読めばお気づきのことと思うが、この本におけるビデオゲームへの接し方は小説や映画のようなフィクションへのそれとほぼ同義である。保存から出力まで、現代はあらゆる芸術形式がデジタルで管理されるようになったこともあり、それぞれを異なる表現、異なる媒体とみなすことは受け手の慣習によると私は考えている。昨今ではSteamなどのプラットフォームでヴィジュアル・ノベル形式のゲームが多く配信されている。『Colossal Cave Adventure』や、「サウンドノベル」というジャンルを自称するゲームにまで遡れるが、これらはプレイヤーが反応することで、物語が限られたルートの範囲内で有機的に変化する。ゲームブックと呼ばれる形式の延長線上にあるものだ。
その一方で、過去の作品のプレー動画(ダンジョンで迷っている道程などは編集でカットされ、視聴者のストレスを軽減する工夫がされがちだ)を見ることが受容の一形態になっている。これは明らかにインターネットの普及および動画サイトの隆盛に伴う傾向だろう。テレビドラマや映画を倍速で視聴する習慣についてのニュースを目にした時、私は後者、いわゆる動画勢(この呼称は、対戦格闘ゲームをプレーこそしないが、対戦動画を見る層を指したものが語源だろうか?)のことを思い出した。もっとも、ゲームを遊ぶことに飽きてしまい、他人がやっているところを見る方がよいという態度は、動画サイトの一般化以前よりあったと個人的に思うが。
 動画勢というあり方をふまえれば「再見」や「再鑑賞」という表現の方がふさわしいのかもしれないが、後述のショーペンハウアー『読書について』の経験が自分の中で強く生き続けているために、今回は書物を読むように接することとして、「再読」という語を選んだ。「『ゼノギアス』のバベルタワーをデザインしたやつ許せねえ」、「『倫敦精霊探偵団』のエンカウント率があり得ない」、「『ドラゴンクォーター』はアイテム使用制限がないあたりがヌルいっすね」といった類の戯言は基本的に書かれていない。その種のノスタルジーは当時の匿名掲示板過去ログからプレー動画を探し回れば困らないだろう。

 今回ビデオゲームたちを再読して得られたものは二つに大別できる。過去の自分が見落としていた種々のゲームの一面と、それらを「現在に」発見したという事実である。幼い頃に遊んだ時は表面的な部分にのみ目を向けていたけれど、成長して外の世界と関わり合ったあとに振り返ってみると、そこには当時気に留まらなかった演出、メッセージ、工夫の類がある。映画製作にも似ているところがあると想像できるが、少なくともこの時代のコンシューマーゲームはチーム競技のような環境で作られている。拙い部分に制作側の事情を勝手に想像するなど、額面通りに受け止めないという大人の作法がゲームの「至らない部分」に(無理やり)意味を与える。
その一方で、この時代だからこそ生まれたアイデアが不在であることから逆に現在を強く意識する瞬間もある。ローポリや内臓音源といった理想と制約のギャップがもたらす表現。20世紀の終わり、ノストラダムスが予言した日への距離、エポックメイキングなルールに便乗して作られた「どこかおかしい」クローンゲームなど。遊んだことのあるゲームすべてからこうした発見ができるわけではないところは重要だろう。今回の再読の対象は、この本の企画を思いつく前から、ずっと私の中で思い出されては記憶の底へと沈んでいくことを繰り返していた。冒頭にも述べたように、これらへの記憶といまだ残り続ける関心をただの一過性のノスタルジーに終わらせたくなかったのだ。過去に立ち返るのは現在からの逃避ではなく、むしろそれを補完するためだ。言い方を改めれば、固定された思い出を頭の中で再現するのではなく、過去にゲームを体験していた自分含む「当時」をもう一度訪れることで現代を生き延びるヒントを得るのである。
 懐古主義だといえばそれまでのようだが、繰り返し主張したい。この本はただ単に「昔は良かった」という世間並みの観念に、「また昔みたいに楽しくゲームしたい」といった自己中心的な望みに根差していない。現在の「私」に寄り添いはしながら、いまという時空間とは一線を画している何かがいくつかのビデオゲームにはある。それが越えられぬ境界の向こう側にあるからこそ、私にとっては言いようもなく懐かしいのである。この懐かしさは、郷愁や憐憫といった感情よりもはるか奥底にある、生きることの悲哀にさえ絡んでいる。

 本書を執筆する上で指標になった人物が二人いる。一人は2017年に亡くなった音楽評論家マーク・フィッシャーだ。フィッシャーが論考内で持ち出していた「憑在論」(Hauntology)というセオリー、厳密にいえば音楽ジャーナリズムの範囲内で使用していたそれは、私がビデオゲームを再読することに奇妙な説得力を授けた。ある論考内でフィッシャーは、互いに関連がなくとも特定の方向性を向いているアーティストたちは「合流地点」を持っており、それが憑在論であると説明する。いわく、この地点に集うアーティストたちはみな記憶やそれを構成する感情を一つの物質(ここではレコード)へと記録することに魅了され、古き時代へのロマンティシズムやそれに対するメランコリーと共存しているのだ、と。これらアーティストの中で英国育ちである面々は、多くがフィッシャーと同世代であった。彼らは90年代、DJ~クラブカルチャーによって過去の音楽をヒップなそれとして聴いていく過程で、自分たちが幼少期に受け止めていた過去の風景が消え去っていたことに気付いた。具体的に書くならば、少年時代にテレビやラジオで流れていた公共放送や子供向けテレビ番組が主な対象であった。これら真面目に作られた「奇妙なものたち」は、アメリカ的な商業色が強まった80年代後半以降にフェードアウトしていった。憑在論のアーティストたちは、これら過去の風景を参照し、大胆に音楽の素材へと使うことでフランケンシュタイン的な「懐かしくも新しい」音楽を生んだ。こうすることで「新しい=正しい」という保守的であると同時に否定しがたい認識と折り合いをつけたのである。大人になり「今起こっている出来事」に対して敏感になるにつれ、奇妙なものを受け止めていた幼少時の純粋さが去勢されていることに対する防衛本能めいた結果だ。
 英国音楽史の話になってしまったが、私が強調したいのは、フィッシャーらが過去の風景が消えていることに気付いた時分、すなわち90年代にに成長していた分野の一つにビデオゲームがあり、その現場にも時おりフィッシャーたちの魂を掴んだ音楽ないし過去への視線が存在していたということである。特に60年代に生まれた人間がポピュラーカルチャーを通して浴びてきたロマンス、テクノロジーの進歩とほぼセットであった未来への展望は、90年代にヒップなデザインないし精神性として再定義され、ビデオゲームの世界でも表出した。スーパーファミコンで発表された『スーパードンキーコング』や、プレイステーションの人気タイトル『クラッシュ・バンディクー』(どちらも発表は94年)は、ジャングルから飛び出した野性味あふれる、というか動物そのものであるキャラクターたちが様々な土地を駆け抜け、ハイテクノロジーへと突っ込んでいく。これらはスペース・エイジや秘境探検モノといった呼ばれ方をしたフィクションの再創造であり、西海岸のもの好き出版社RE/SEARCHらを中心に巻き起こる「モンド」と呼ばれた過去の再発見・再検証運動とパラレルな関係にある(『クラッシュ・バンディクー』シリーズの音楽を手がけたマーク・マザーズボウはまさにモンド音楽マニアである)。
任天堂の看板タイトル『ポケットモンスター』(95年)は、デザイナー田尻智が幼少期に田園都市の片隅で昆虫採集に励んでいた時の記憶、再開発によっていつしかなくなってしまった土地含めた過去へのそれがゲームとして再創造されたものである。
より英国~ヨーロッパ的なたとえを持ち出すならば、『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』シリーズは、自然と文明が共存した『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の意匠を引用し、独自に発展させたものである。そこにあるイメージはよくもわるくも形式的(小さな村や大きな城下町といった地理、モンスターに悩む民衆、はるか遠くに座するモンスターの元締めなど)であったが、『ファイナルファンタジー』は『ブレードランナー』的サイバーパンクに傾倒したシリーズ(Ⅶ』~『Ⅷ』)を経たのちの『Ⅸ』で旧来のおとぎ話調の舞台と過去作の設定を持ち出し、自作自演的にノスタルジーを爆発させた。今回は書かなかったとはいえ『Ⅸ』は私にとって大きなタイトルである。プレイステーション以降のタイトルから遡る形で『ファイナルファンタジー』シリーズをプレーした時も、初代3タイトルを遊ぶほどに『Ⅸ』が懐かしく感じるようになったほどだ。『スタートレック』や『世界残酷物語』といった映画を観た時も同じで、そこには『クラッシュ・バンディクー』の残像があった。生まれる前の時代にノスタルジーを見出す習性がついていたのだ。

 もう一人、この本に影響を与えた作家であるアメリカ人作家ローン・ラニングも理想としての過去と対話し続けている。しかし、アメリカ化によって失われた未来像を儚むマーク・フィッシャーと違って、ラニングには郷愁や悲愴がない。それもそのはず、彼のユニヴァース「Oddworld」は母国アメリカが中心となり続けている環境問題や民族搾取が根幹にあるため、古くも新しくもない進行形の問題ともにあり続けているからだ。Oddworldシリーズの一つ、『エイブ・ア・ゴーゴー』や『エイブ99』(それぞれローカライズされ日本でも発売された)、そして最新作『Soulstorm』といった作品は、ラニングが崇拝する初代『スターウォーズ』がそうであったように、過去から繰り返してきたシンプルかつ奥深いテーマが最先端の映像技術によって描かれている。幼いころにこのゲームを遊んだ子供たちは、再びそこへ戻ってきた時に、多彩な模様が施されていることに気付くのである。
このシリーズに関して書くなら別の機会が必要になるため、ここでは簡潔に述べることにする。エイブと名付けられた非力な民族奴隷の一人と、それを追う敵キャラクター(資本家とそれらにやとわれた警備兵、どう猛な原生動物など)の両方が操作できるため、一対一の関係を二つの立場から体験できる。こうすることで「後ろから撃つ」、「手を汚さない」といった関係性がブラックユーモアとして提示される。30代も半ばにさしかかった今になってOddworldの諸作をプレーし直してみると、政治的トピックがいくらでもエンターティメントになり得るということをラニングは教えてくれる。それも小島秀夫の『メタルギアソリッド』シリーズのように、メッセージがゲームを進めるうえの過程に落としこまれているのだ。
18世紀から19世紀にかけて著作を残してきたアルトゥール・ショーペンハウアーは『読書について』という文章で、本を読み直すことを「ひとつの対象を違った照明の中で見るようなもの」と書いた。そして私がこの言葉を実感したのは、Oddworldシリーズからである。。

 この本のために再読されたゲームたちも多くが過去に見過ごしていた一面、表面的または当時理解が及ばなかった示唆などの意匠をもっていた。それは受け手である私が変わったから気付けたこともあれば、単に作品側が上手く描写できていないと感じた場合もある。

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