平田オリザ氏、または演劇業界へのアドバイス:「敵」との和解、「敵」への寛容こそが「相互理解」の絶対必要条件

前回、平田オリザ氏炎上が、今、対立する人間同士のコミュニケーションが実質不可能であることに起因すると論証した。そして、演劇業界はその被害を受けて、酷い炎上をうけている。このディスコミュニケーションを、どうやったら解決できるだろう?

まず「敵」を助けるといいのではないか。

実は、「相互理解」とは、「敵」との和解。まさにこれのことだと思う。どういうことだろう?

「フェアネス」を受け入れて貰う前に、それが「フェア」だと、行動で示すことだ。もっというと、「フェアネス」は本当は「フェア」でないと思われているし、かなりの場合、真実なので、「アンフェア」を先に、言葉ではなく行動で、解体しておく必要がある。

これって単なる相互利益保証?いや、実は、違う。これを「あらゆるフェアネス」にたいして実行できること、これこそ、真の意味で「相互理解」なのだ。

「どんな基準、どんな規範、どんな正義、どんな価値観、どんな理屈を持ち出しても、あなただけに最終的な「自己責任」は負わせません。なぜなら、あなたがある規範で「悪」「弱者」「不利」「敵」になってしまったのは、あなただけのせいではないからです。しかたがなかった」

これだ。これこそ、求めるべき「理解」だ。これが「相互に」ないと、対立するこの世の誰とも、話が通じない。一切の前提を共有できない。議論も、会話もだ。

たとえば、平田氏、または演劇業界は、今可能な宣伝能力を全て使って、クラウドファンディングを実行し、製造業関係者および関連の失職者、休職者の支援を行う、などはどうだろうか。

とくに平田氏は、たとえば「ものづくり文化国家論」などを構想して、国家の製造業へ文化としての強力な支援を訴える、文章やら論文など引用した、面白コラムでも始めるべきだろう。そして、本気で国に訴える。これは今思いついたが、我ながら結構良さそうなアイディアだと思う。あるいは、演劇関係の方はどなたでもご自由にやって頂きたい。ちなみに、noteは中々使いやすい媒体だ。

最初に全くの本心から申し上げておく。

私は、演劇業界が焼かれてほしいとは思っていない。焼かれるべきだとも思っていない。できれば焼かれないほうがいいだろう、というのにも同意する。ただ、このままだと焼かれる可能性は高い。もうかなりの多数派に、「話を聞いてあげる必要はない」と思われてしまっている。そして、私が「演劇を焼くな」と叫んだら、それはただの「擁護」だ。

実は、いま、言葉は全く無意味だ。

だって、「この前提は受け入れてくれ!」といった時点で、それがどんなに「妥当」でも、それは、攻撃に過ぎない。あなたが何を思ってるかは関係ない。そう見えるのが、そう見て良いのが、今のコミュニケーションだ。それを前回見てきた。

価値観のイニシアチブをとる攻撃は、何をされるかわからない。つまり、その後完全に主導権を握られてしまう。だから、怖いので、絶対に理解する気を放棄して、お互い防御する、それがいまのインターネットのコミュニケーションだ。その結果、一番の大前提すら、ただの論点、争点になってしまう。これはだれかが悪いのではなく、構造上絶対そうだ。芸術支援、憲法解釈、医学的事実、男女差問題、いつも、いつもおきているのは「これ」なのではないだろうか?

私は、これが今日本で全ての論点でおきている、恐ろしい事実の本当の姿だと思う。

だから、まず、なにかを「フェアネス」として要求するには、自分がそれを守れるかとかではなく、「このフェアネスを受け入れたら、あなたは不利になりえますが、私はあなたに絶対大損をさせない、先に保証します」というのを、言葉や法律でなく、行動で直接示す、それが実は、民主主義には最初に絶対必要だということを、ゼロから考え直すべきだと思う。

どんなに理想を言っても、むしろその理想が「綺麗事」というコンテクストで汚されて、使い物にならなくなってしまう。法は助けてくれない。だって、そんなもの多数決で改変されてしまう。フェアネスの変更で、多数派が変わるのが一番怖い。

ゆえに、それを解体するには、「この前提を受け入れてあなたが負けても、絶対損はさせません」と毎日、言葉で説明するのではなく、国のルールでもなく、お互いが行動で示さなければダメだ。それが、最低限必要だ。

これを「フェアネスについて合意可能なための、最初のフェアネス」

として要求する。それが、「相互理解」ということだと、主張したい。

平田氏がいま嫌われているのは、「前提となる自分の理屈」で他人に「損」をさせてきた人が、「前提となる自分の理屈」をまた言ってきて、誰かに「損」させようとしているので、「損」したくない人は話を聞かない、たったそれだけなのだ。言葉の内容は誰も聞いてない。本当に損させたかすらよくわからない。それはコンテクストに依存してしまうただの攻撃だ。

そして、今回の平田氏の前提、「演劇業界」への援助は正しいだろ?という「真実」も、もう受け入れてもらえない。それは自分の業界への援助要請だ。

唯一の方法は、これからは、「前提となる自分の理屈」である、「苦しい業界支援」を受け入れても、自分の利益最大化だけすることはしません。損してしまう人がいたら保証します。お疑いにいなるのなら、まず別の業界を支援します。それを先にやるしか無い。それをやれば、「フェア」として主張できるはずだ。

私は、この観点を使えば、今起きている殆どのインターネットのコミュニケーション障害は、長期的にはなんとかできると考えている。逆に、これをやらない限りは絶対ムリだ。言葉だけでは絶対に不可能。

これは、もっと根本的なルールですらそうだ。たとえば、「言論の自由」を訴えたい人は、単に他人の発話の権利を守るだけでは絶対に不十分だ。「発話が下手な人」の代わりに弁論して上げる必要がある。

もちろん、実行には色々問題は有る。それをふくめ、本noteでは、これを例証していきたい。

ここからは、ぜひ皆さんにも批判的に読んで頂き、「他に方法はあるか」「どうやればいいのか」などを議論して頂きたい。

これから、本noteがもとめていく「相互理解」について、提案を行う。

・相手の持ち出してきた「前提」を受け入れても、絶対そこまで政治的に「損」しないという最低限の安心感、信頼感

・それを法律、ルールではなく、実際に直接みんなやってるということで確認できるもの

・そのためには、自分が何かを「フェアネス」として要求するとき、その「フェアネス」で損してしまう人たちに対し、その政治的立場を代わりに公論に向かっていつもディフェンスしてあげ、損害も先に引き受ける。そうするべきだ、なぜならば、誰も本当はどんな意味でも「自己責任」なんかじゃないからだ、と「理解」する

これだ。これをやる必要がある。これを論証していきたい。


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