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平田オリザ氏炎上にみる、コミュニケーション教育は「他者と相互理解する能力」を害しているという現実

平田オリザ氏が炎上している。私はこのことを劇作家としての平田氏や、「演劇業界」の責任に帰する気はない。 芸術保護と国家の関係にもとりあえず足を踏み入れない。しかし、平田氏が活動してきた「コミュニケーション教育」業界は、致命的な欠陥、矛盾を孕んでおり、今回の炎上は、単なる個人のディスコミュニケーションを超え、その決定的な表出だと考える。のみならず、そもそもこの炎上の構造自体を作り出したのも、「コミュニケーション教育」自身であるとみなす。それゆえに、その観点からは、批判は免れ得ない。

結論から言おう。今回の炎上の原因は、日本のコミュニケーション教育が、単なる「伝える力」技術論にとどまり、「相互理解」の非対称性と、「理解する力」をあまりにも軽視してきたことだ。その結果、「コミュニケーション能力」とされるものを高めれば高めるほど、むしろ他者との相互理解から遠ざかるという病的な構造を生み出した。「コミュニケーション教育」の結果、新たな「コミュニケーション障害」を生み出したといっても過言ではない。

1.平田オリザ氏炎上の真の問題点

平田オリザ氏は、劇作家、演出家、劇団主宰者であると同時に、教育者として活躍してきた。単なる演劇教育の活用にとどまらず、文部科学省コミュニケーション教育推進会議委員の座長も務めるなど、日本における「コミュニケーション教育」そのものの旗振り役でもある。

コミュニケーション教育の大目標は、価値観、文化の異なる他者との相互理解とされる。グローバル化社会、価値観多様化社会において、その必要性は疑いない。

もちろん、氏は、相互理解が容易いとは言っていない。氏の著書「わかりあえないことから  コミュニケーション能力とは何か」から簡単な要約を試みる:コミュニケーションのためには伝える力、伝えたいという意思が不可欠である。それには第一に技術の向上がもとめられる。発話の方法、表現の方法、コミュニケーションのルールや技法を学び、実行することで、お互いの差異をすり合わせ、相互理解へと近づいていく。それがコミュニケーション教育である。だが、現代日本の教育はそれに成功していない。その原因を、氏は「他者の不在」にみる。閉じた学校内には、見知った仲間とのゆるいつながりがあるだけで、価値観の異なる他者との出会いはないからだ。そして演劇は、そのうってつけの解決方法である。なぜなら、演劇は人生の、他者の、異文化の疑似体験であり、学校の外に出ることなく、他者との対話にむけた練習を行えるからだ。無論、万人にそこまで劇的な効果はないにせよ、最低限のコミュニケーション技術を身につけられる可能性は高いし、それこそが教育の目的である。さらにその結果、社会は異なる価値観に寛容になり、芸術、文化への理解も促進され、花開く。

なかなか説得力があり、魅力的な教育論ではないか?


しかし、今回の炎上は、この教育論が、かなり怪しいという事を露呈した。まず、以下で見るように、平田氏は、他者との相互理解に取り組む能力が、それ以前に意思がない。そして、その程度はコミュニケーション教育に関わっていない一般人よりよほど酷い。

平田氏の炎上の起点は、コロナ禍において芸術活動、とくに演劇活動への支援を訴える以下のインタビューの一部だ。https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2020/04/0422.html

製造業の場合は、景気が回復してきたら増産してたくさん作ってたくさん売ればいいですよね。でも私たちはそうはいかないんです。客席には数が限られてますから。製造業の場合は、景気が良くなったらたくさんものを作って売ればある程度損失は回復できる。

この部分が問題視され、それ以前に野田秀樹さんがスポーツ軽視と捉えられる発言をしたことと重なり、炎上となった。

とはいえ、この時点では、単なる発話ミスに過ぎない。知りもしない製造業を窮状を訴える枕にするべきでない、製造業だって同程度、それ以上に苦しいところもいくらでもあるだろう、増産で回復できないところも多くある、という素朴な指摘が主だったが、この部分について撤回すればいいだけの話に過ぎない。芸術への支援を訴えるという論旨自体は変わらないのだから。

更にラディカルな「批判」も出た。

webライターの石動氏は、上記の発言を、平田氏の製造業への偏見、とくに、製造業から文化芸術へ産業構造の転換を推進したいという政治的動機の現れだとした。

この内容の正誤はともかく、平田氏自身の発言を引き、政治的動機を推察することは批評の範囲内であろう。間違っているなら反論すればいいだけの話である。それが他者とのコミュニケーションのはずだ。

ところが、これらの反応に対し、平田氏の「応答」は以下であった。

発話ミスを批判する悪意のツイートと断じ、一次資料、原典にあたっていない単なる嫌がらせと退けた。そして、なんの出典や根拠があるかもよくわからない産業比較論を繰り返し、自説である「製造業よりも演劇業のほうが苦しい」という内容を補強する発言を行った。さらには、自らへの批判を「天皇機関説への弾圧」にたとえ、一切無効とする、異常とも言える反応を示した。そもそも発端となったのは、演劇の窮状を訴えるために使ったレトリック程度の話であり、根拠も乏しく、すくなくとも、学術的価値はない。それにも関わらず、素朴な反発は学問への弾圧だという。

石動氏への「返答」はそれより酷いものだった。

なんと、石動氏の同一の転載記事をサムネイルだけで別記事と判断し、読んですらいないことが露呈した。そして舌の根も乾かぬうちに、「批判する前に全て一次資料に当たれ」と宣っている。自身は数分で読み終わるweb記事すら読んでいないのに。下手したらタイトルすら片方しか読んでいないだろう。

さらなる問題は、次に見る、漫画家、須賀原洋行氏とのやり取りだ。そして実は、これが最も酷いとさえ言える。

どうやら、須賀原と平田氏は面識があるらしく、この件に関して数少ない、会話が成立している例だ。一見すると、ここまでで紹介したコミュニケーションの中では穏当に見える。しかし、よく読んで見ると、全く対話が成立していない。

須賀原氏は製造業も、減価償却や機器の維持費、人件費などを加味すれば、同程度に厳しいだろうと主張した。まあ、穏当な内容と言える。それに対し平田氏は、中小企業の平均の内部留保に対する怪しげな算数や、漫画を読むと感染するウイルスなどのレトリックを持ち出し、演劇がより厳しい状況であるとの主張を繰り返した。

これらの主張や、レトリック自体が問題なのではない。相手の言うことを聞こうとせず、自身の「伝える力」の発揮のみに終止したことが真の問題である。これは対話ではなく、相互理解のためのコミュニケーションではなく、単なる一方的な弁論だ。しかも結果として、須賀原氏を説得することもできず、物別れに終わった。

須賀原氏は、世間と平田氏の主張のギャップをの間を取り持とうとしたように見える。演劇業界への思いも口にしている。礼を失さずに、コミュニケーションのプロトコルにも従っている。それに対し、平田氏は相変わらずの無理解と、お粗末な「伝える力」の発揮で答えた。

もはや問題点は明らかになった。すべてのケースで、コミュニケーション障害を起こしているのは、専門家であるはずの平田氏側である。しかも、単なる間違いや、能力不足を超え、他者を理解することをはじめから拒否する態度、これがディスコミュニケーションの原因となっている。弘法にも筆の誤り、などという言い訳は通用しない。なにせ、それ以前に、相互理解をしようともしていないからである。これは、一体どういうことなのだろうか。

2.「伝える力」偏重主義と「理解する力」の軽視

コミュニケーション教育の問題点は、一面では指摘されてきた。平田氏自身も、例えば著書「わかりあえないことから  コミュニケーション能力とは何か」で、主に企業が主導してきたコミュニケーション教育の問題点を、発話推奨と同調圧力のダブル・バインドとして批判している。

だが、彼の一連のコミュニケーション教育観で、明らかに偏っていて、しかも見逃されている問題がある。それは「伝える力」と「理解する力」のバランスだ。

彼は著書、インタビューなどの中で実に饒舌に「伝える方法」を「伝える」。より伝わりやすい、あるいは角が立たない、意見をすりあわせ合意に持っていくための、演技、会話、レトリック、言語論などなどを、それ自体を用いて実にわかりやすく語る。しかし、いったん表現されたそれらを「理解」する方法については半ば無視していると言っていいほど何も語らない。上述の「わかりあえないことから」においてみると、数少ない例外は、「言語的弱者」、および自閉症についての記述があるのみである。例えば以下に引用するような部分だ。

...もちろん人間の中にも、こういったことが苦手な人はいる。一つの典型例は、自閉症の方たちだ。自閉症の特徴的な症状として、他者の言葉に対して、類推、応用が利かないという点が上げられる。だから、自分が本当に好きな人から「ボウリングに行こうよ」と誘われたとしても、「ごめんなさい、私はボウリングは嫌いなんだ」と答えてしまう。こういった症状は、脳の機能障害が原因だと言われているので、治療や、その他の方法でその機能を補っていくしかない。逆に言えば、脳に障害でもない限り、私たちはみな、コンテクストを理解する能力を持っている。どんなにKY(=空気が読めない)と言われる人でも、実際には、それなりの能力は兼ね備えている。コンテクストを理解するというコミュニケーションの基礎的な能力は、みなが持っているのだ。...                                                                                           講談社「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」平田オリザ  第七章より抜粋

しかし、これはいくらなんでもおかしいだろ!なにかを理解することは、なにかを伝えると同じくらい重要で、また難しい事のはずだ。相手が発話したこと、記述したことを丹念に聞き、読むこと。他の発言、他者の発言と比較し、類推すること。ときには、資料や客観的なデータをもとにする必要もあるだろう。また、それをもとに再び相手に伝え、さらなる対話を引き出す。それはもとから出来ることなどではなく、訓練し教育すべき技術である。障害がなければ勘で出来るだろ、なんていくらなんでも…なんていうのは、あまりに釈迦に説法に感じられる。だが、あえて言わざるを得ないほど、「理解する力」についての「理解」は乏しいと言わざるを得ない。上述の部分以外でも、当該の書は「伝える力」の技術と哲学に終始し、「理解する力」にはほぼ触れられていない。それ以外の書籍、メディア露出においてもこの傾向は顕著だ。例えば、平田氏の著書「対話のレッスン」なども、よくよく中身を見てみると、単なる「発話のレッスン」としか言いようがない。

そして恐ろしい事実として、この観点に立つと、ディス・コミュニケーションは常に発話に主因がある。それ以外には、「障害などに起因する貧弱な理解、あるいは伝達能力の訓練不足による貧弱な発話を理解してあげられない」側に、多少の倫理的責任があるという程度だ。

そう、平田オリザ氏にとっては、一連の騒動は「自他のことを十全に理解し、それを伝達できる自分」と「自他に対する理解力が低く、伝達能力も低い他人」の間のディス・コミュニケーションであり、それ以上でも以下でもない。基本的には却下してよいものだし、どうしてもという場合は、自身の「伝える力」を駆使して正しいコンテクストを「教え諭す」こともある。こうしてみると、平田氏の一連の対応にも大体の説明がついてしまう。

さらに言えば、逆に、平田氏や演劇業界を、窮状の援助を訴えたという理由で「叩いて」いる人間の隠れた論理も、これと相似だ。平田氏及び演劇業界は「コミュニケーション」、つまり発話に失敗した。その原因は伝達技術の不足にあり、発話内容を変更するまでは全責任は平田氏、及び演劇業界に帰する。それまでは演劇業界の窮状に耳を傾ける必要はない。

これが「コミュニケーション」なのだろうか?「他者との相互理解」に繋がる道なのだろうか?なにか決定的におかしくないか?

そもそも、平田氏はなぜ「伝える力」に偏重した「コミュニケーション教育」論にたどり着いてしまったのか。そう問うと、決定的な事実を見ないようにしていたことを思い出される。

そもそも平田氏は「コミュニケーション能力」のプロではなく、「伝える力」の達人=演劇者であった!

なるほど、「伝える力」に偏った教育観を形成するのは、当たり前といえば当たり前だ。演劇者は、客に言葉を伝えるプロだ。コミュニケーションとはすなわち、伝達だ。客の言葉は、感想や反応という形で聞くかもしれない。しかし、そもそも客ですら無い他者は?演劇を見るという発想すらない他人との話は?せいぜい、客になってくれと宣伝するとか、なぜ演劇を見てくれないのかという程度に留まる。文科省の役人への「演劇教育」の売り込みもこれだろう。あくまでも本業たる演劇が中心だ。これらは「異なる他人」への理解には必ずしも資さない。帰結として、演劇者は、「理解する力」について考える能力は、全くの一般人と同程度しかない。さらに言えば、「伝える力」も、全くの異なる他人ではなく、すでに「演劇」に興味がある人間、演劇を理解したいと思っている人間に対して最大化される。さらに悪いことに、この傾向は「教育」に関わっても全く矯正されない。教育を受けに来る人間、とくに高等教育を受けに来る人間は、当然、教育を受けたくて来ている。最低限の能力が保証されている。教育の内容に同意している。これもまた、今回の炎上の遠因だ。「理解する力」の要求量の小さい、閉じた世界での「伝える力」に特化した人間。それが一度、合意のない開いた世界で発話すると、自身の「理解する力」を過信し、致命的なディスコミュニケーションを引き起こすのは、もはや予定調和だ。

これは演劇教育に限ったことではない。「コミュニケーション能力」の「専門家」として起用される、非教育者出身の多くの方々に共通するバックグラウンドだ。

彼らは表現者、芸術家、伝える力の専門家である。その力で持って本業で大成功を収め、教育界にも進出する。そしてその本業の体験を通した表現技術の鍛錬を通して、学生の「伝える力」を鍛える。学生は「伝える力」を身に着けて満足。「専門家」は教育と本業を両立できて大満足。

それ以上でも以下でもない。これはコミュニケーション教育ではない。すくなくとも、「相互理解のための」コミュニケーション能力は全く発達しない。むしろ、「自分は相互理解の能力がある」という慢心故に、より酷いものとなる。

3.「伝える力」競争主義の悪夢

だが、ここで「演劇教育」が悪かった、という安易な結論では終われない。それではまだまだ本題に到達していない。そもそも、教育界はなぜ、「伝える力」に偏重した演劇教育、表現教育、芸術教育を「コミュニケーション教育」の柱に据えたのか?

ここで批判すべきは、本邦の、そして世界における「コミュニケーション教育」ブームの動機だ。

そもそも、コミュニケーション能力開発は、マイノリティ、外国人、価値観の違う隣人、といった多様な他者との相互理解のため、という美しいお題目で推進されてきた。だが、実際の社会における使われ方、なんのために用いられているか、を考えると、しばし全く逆に作用している事実に気づく。

現代は多様性社会などと言われる。そこでは様々な価値、ヒト、モノが並べられ、市民はそれを好きに比較し、選び取って良いとされる。そうして競い合うことが、健全な社会の発展につながる。そこで第一に要求される「コミュニケーション能力」とはとどのつまり「売り込む力」である。「伝える力」である。インセンティブがあるのは理解してほしい側なのだから、必死に努力して伝達能力を身に着けよう。理解してもらえないのは、発話方法が悪いからだ。もっとよい伝達の方法を身に着けるため、コンテクストを勉強しよう。「伝える力」の重要な双対である「理解する力」は、売り込みたい側がどうしても必要にかられ、相手をわかりたいときにだけ、勝手に発揮するべきものだ。これは必ずしも資本主義・成長至上主義の価値観に起因するものですら無い。平田氏は、脱成長を唱えながら、同時に、国家による芸術活動助成の促進も求めていた。これは結局の所パイの奪い合い、国民や政治家の関心を集める競争に帰結する。その意味で、成長を諦めても競争からは絶対に逃げられない。

これは相互理解への道などではない。ここにあるのは、伝達能力を用いた競争社会のみだ。平田氏は合意形成という言葉をよく使う。合意形成とは一種の契約だ。露悪的に言えば、現代のコミュニケーション教育とは、契約書にはんこをつかせる能力だけが異常発達した営業マンを育てる教育に等しい。これはもはや新たなコミュニケーション障害者を生み出す教育とも言える。この目的のため、「表現者」を「コミュニケーション教育の専門家」として雇用している「教育界」、これが真の病巣だ

売り込み合戦に敗北した思想・価値・人間は、その「責任」を引受け、理解されることはない。もちろんこれは理不尽などではない。何度でも売り込み合戦に参加する権利はあるのだから。

逆に、売り込みに成功し、正しいコンテクストの仲間入りを果たした思想・価値・人間は、新参者の「伝える力」を判定する側に回ることが出来る。「理解する力」は当然備えているので、鍛える必要はない。まあ、一部の弱者、どうしても発話できない明らかな原因があるものは、その「徳」をもって救済して上げる必要はあるが。これでは、富めるものが益々富む、経済の不平等どころの話ではない。「何がコミュ力(富)かはその場のイニシアチブの有る側(富める者)」が決めて良い、という、病的なまでの非対称性である。そして主題は、そのイニシアチブの奪い合いだけだ。

いずれにしろ、要求される「能力」に「理解する力」は入っていない。「伝える力」はもちろん重要だ。そしてさらに重要なのは、売り込みのための付加価値、魅力、商品価値だ。これはコミュニケーション以前に持っているとなお良い。人物で言えば、知的能力、性的魅力、親から受け継いだ資本であるとか、なんでもあればあるほどよい。そうすれば、「売り込む側」ではなく「売り込まれる側」に回れる。「コンテクストを読む側」ではなく「読ませる側」でいることができる。一度上がることができれば、もはや「伝える力」の要求量すら小さくなっていく。

その行き止まりが、まさに今の社会、互いに相争い、ときに連合を組み、伝達合戦を行う価値観群雄割拠社会だ。そこでは相互理解は同じ陣営の中で行われる安息であり、敵との戦いに赴くインセンティブである。敵対陣営のとそれはありえない。他の陣営とのコミュニケーションは、単なるコンフリクトの確認で終わる。最も重要なのは、自身の属するコンテクストを「正当」の側に置こうとする不断の努力である。しかも、それは中身の正当性というより、伝達能力の結果で決まる。

これが断絶への道でなくていったいなんなのだろう?

本件の炎上に関して、上のような記事があった。素朴な感想として、以下の点が述べられているため引用する。

ただ、演劇界に限らず、今って本当に「上手に悲鳴を上げられなかった者」「わかりやすいつらさを持たない者」が淘汰されていく感じの流れができつつあって、それがとても恐ろしいなとは思う。

「上手に悲鳴をあげられなかった者」が自己責任として淘汰されていく社会。窮状を世間に売り込む言葉が拙かっただけで切り捨てられる社会。確かに恐怖である。

しかし、その社会をここまで作り上げてきたのは、間違いなく「伝える力」偏重の「コミュニケーション教育」である。それに加担する側ではあっても、それに抗う側ではなかった。相互理解を促進する役割を果たさず、むしろ断絶につながる技術をひろめ、理念の拡散に追従した。

これは悲劇を通り越して一種喜劇的ですらある。演劇教育の専門家、「伝える力」の伝道者として活動してきた平田氏が、場の権力関係や世間の状況を見誤り、自身が定義した「コミュニケーション=発話」に失敗した。その責を演劇業界全体が負わされるのだから。巻き込まれたその他演劇業界からすればあまりにも理不尽だが。

4.「相互理解」は可能か?教育という幻想

さて…ここから、コミュニケーション教育をアップデートし、「理解する力」を育てましょう!という美しい結論に飛びつけば、万事めでたしで終われる話である。しかし、ことはそう単純ではない。

そもそも問題はなんであったか。コミュニケーション教育は、相互理解を妨げる原因を「能力」の不足に見た。それは半分は正しい。できないことはできない。だがもう一つの重大な原因は、相手を理解しようとする「動機」だ。発話に関しては、まだ問題は表出しづらい。伝えたい人間は話せば良い。伝えたくない人間は、黙っていれば良い。だが、問題はそれを聞く側にある。理解する能力があったとしても、理解する意思がなければ、相手の発話を拒絶できる。コミュニケーションの断絶のボトルネックは、必ずしも能力ではない。平田氏はそもそも、コミュニケーション教育に参加する動機を、個人の利益に帰している。これはとても現代的な教育観である。学生は受益者であり、得になるから能力を身につける。全く明快な論理だ。だからこそ致命的な見落としをする。そう、利益のためにコミュニケーションを行うものは、利益がなければ行わない。

そもそも、断絶はいつ起きる?見知らぬ、文化のバックグラウンドも全く違う、しかしお互いを理解しようと思っている他人と出会ったとき?それならば、たしかに話はまず能力の問題だ。

だがしかし、現代の断絶とは得てしてそうではない。最も致命的な断絶は、「知っている」隣人との間で起きる。典型例では、「私」は相手の価値観をすでに「理解」している。本当に理解してるかは重要でない。ともかく主観的な「理解」だ。それは「私」の価値観と到底相容れないもので、「正当性」にも欠ける。それで話は終わりである。自身の相手の「理解」はすでに十分であり、これ以上すすめるつもりはない。なぜならその利益がないからである。もちろんこちらの価値観の正当性を「伝え」、適宜「啓蒙」する必要はあるだろう。だがそれはどちらかと言うと、日和見をしている第三者を自陣営につけるためのものだ。無論、相手が伝える力を発揮して、こちらに語りかけて来ても良い。ただし、それが受け入れられなくても、それは相手の「伝える力」「コンテクストを読む力」の不足に起因する。

ここで「私」の「理解する力」は、一見使われているようでいて、その実一切不問だ。相手が伝えてきた内容を能力的には「理解」できるとしても、その帰結や論法が気に入らなければ、「理解できなかった」ことにすればいい。それを第三者にアピールすれば、それは相手の失点となる。むしろ、理解する能力が高かったとしても、この演技がより巧妙になるだけかもしれない。

このように、相互理解に必要なのは単なる技術、能力ではない。それどころか、技術はときにより断絶を深める。「理解する力」という、これまでのコミュニケーション教育で軽視されてきた力をもっともっと鍛えたとしても、むしろそれ故に益々、断絶は深まる恐れさえも有る。

やや絶望的な結論になったが、以上を踏まえ、これから「コミュニケーション教育」の取りうる道を列挙する。

A. コミュニケーション教育とは、異なる価値観の相互理解のためにあるのでなく、伝達能力を鍛えて一方が他方を従わせるための技術論であると認める。美しいお題目を捨て、自らが競争主義社会のための武器商人であるという正しい自己認識を持つ。

B. コミュニケーション教育に「他者に対する理解」を技術論として盛り込み、拡充する。それが必ずしも用いられない、というか、理解する側の利益に応じて好きに使用していいものであるという点においては、目をつぶるか、いっそA以上に開き直り、さらなる強力な武器として販売する。

C. 「相互理解」とはなんなのか、それがどこまで可能で、どこからは不可能であるか、なぜそれを行うべきか、あるいは行うべきでないかを再考する。そして、本当に「相互理解のための技術」としてコミュニケーション論を再構築する。


Aは容易い道であろう。ただこれまでついてきた嘘を認め、後は技術論を習熟させていけば良い。現状追認、ただし認識能力をはっきりしろ、ということだ。そもそも、相互理解が必要であるとか、望ましいものであるという前提さえ捨てれば、単なる技術論を追求し、受益者である学生に伝授することになんの瑕疵があろうか。

Bはさらなる能力向上への道だ。「コミュニケーション能力」はある意味では完成に近づく。しかし実は、Aより激しい断絶の道につながるのかもしれない。「コミュニケーション能力」の格差はますます広がるだろう。教育はそれを埋めるのではなく、むしろ教育機会の差や個人の能力をテコに加速する。これも前述と同じく、「それがなぜ悪い?」と開き直ってしまえば、問題は消失する。

Cは険しい、というか可能なのかもわからない道だ。確立された目的に対する技術の構築ではないからだ。そもそも相互理解ってなんだよ?というある種哲学的な問いは避けては通れない上、それを可能にする技術を少しずつ進歩させる必要がある。こういった、哲学と技術論の並立は常に危険を伴う。私ごときが、こんな場末のnoteで大上段にぶち上げただけでは、単なる戯言である。だがもし、本気で「相互理解のための」教育というものを信じているなら、これ以外に道はないはずだ。本noteではとりあえずここで行き止まりだが、折を見てこの方向の可能性についても論じたい。

私は、noteにおける大テーマとして「アンチ自己責任論」としての「アンチ教育論」を掲げたい。それは教育を行うな、とか、教育は無意味である、といっているわけではない。むしろ全く逆だ。教育は不可欠であり、強大な力を持っている。そして、それゆえに危険である。その典型的な構造の一つが、「相互」「平等」の建前のもと、実際には「一方的」「不平等」な構造を保存し、強化することに繋がる場合だ。そしてこれは無意識、意識的に関わらず新しい形の「自己責任論」と強固に結びつき、市民の間に不可逆な断絶を引き起こす可能性がある。いや、私はそれがすでに取り返しのつかないほど顕在化していると考えている。


大テーマはさておき、今回のまとめに入る。

・平田氏が今回炎上した原因は「理解する力」の軽視である。

・それは単なる能力不足を超え、教育観レベルで「コミュニケーション能力」への理解が誤っていたことに起因する。

・さらにそれは、平田氏を始めとする演劇者が、単に「表現者」「伝える力の達人」であって、ほんとうの意味でコミュニケーション能力に優れていたわけではないということに遠因がある。

・そして、教育界がそういった「専門家」を起用していたのは、価値観競争社会において、個人の利益のために重要なのが「売り込む力」のみだからである。

・これらの点を解消しなければ、「異なる他者との相互理解のための」という理想と矛盾する。これを捨てるか、やり直して新しい道を選ばねばならない。新しい道を選ばない限り、社会の断絶は深まる。そしてその罪はコミュニケーション教育にある。

「コミュニケーション教育」を推進されてきた方々からの反論や批判、あるいは別角度からの再批判を期待する。


5/28変更:

「独自研究」的きらいはありますが、現代日本の「コミュニケーション」とは一体何なのか、「自己責任論」とは、について以下でやっていきます。


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