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「相互理解」のアンチパターンとしてのメンヘラ.jp

本論考の前提

相互理解」=「決定的に対立する人々の間での、最低限の理解」

前回要約:「相互理解」のための「発話の場」を無前提に追求する勢力を広げていけばいいんじゃないか、というアイディア。詳しくは以下のnote参照。読まなくてもいいです。

とりあえず、「相互理解」のための勢力を徐々に広げていきたい、と誰かが考えたとしよう。

ただし、今、「成功例」はどこにもない。全くの理論的要請からまともなシステムにたどり着くのは流石に無理だろう。そこで、しばらくはアンチパターン、つまり、一見うまくいきそうだけど絶対に失敗する構造、を具体的な失敗例をもとに解析し、修正を試みるという形式で論考していく。

1.アンチパターンとしての"メンヘラ.jp"

突然だが、みなさんは"メンヘラ.jp"という取り組みをご存知だろうか?下記に、簡単なコンセプト説明とクラウドファンディングの呼びかけページを貼っておく。

中々興味深い理念とシステムで動いている。私自身、完全に理解しているとは言えないが、以下で要約を試みる。

・現代医療、とくに精神医療業界の「当事者性」の欠如にアプローチするため、最も広い意味で、メンタルヘルスに問題があり、生きづらいと自認する人を「メンヘラ」と定義。客観的証明を不要とし、非対称性を削減。

・単に治療支援だけでなく、自由で安全、しかもPVの多い発話の場を、場の前提として「思いやり」というコンセプトを掲げて、「お悩み相談」「つぶやき」などとして提供することで、孤立しやすいメンヘラの人々のつながりを生み出し、孤立や対立を緩和する。

・さらに、就労支援、医療支援などの、医療・福祉行政との接続も支援することで、参加者の即物的メリットと客観的安全性も確保。

と、一見、なかなかに考えられており、「うまくいきそう」なシステムである。とくに最後の点は、コストの観点から見ても、そうそう実行できる取り組みではない。

これって、「相互理解」とか関係なくない?と思った方、大間違いだ。上記の目的、勢力拡大のために最低限何が必要なのか?

上記のお題目を掲げた団体が、全ての「メンヘラ」の利益ために行動しているという信頼が必要だ。対立している人々に、一旦それを脇に置き、「メンヘラ」のためだけに協力することを求めているからだ。すくなくとも、「呉越同舟」には納得して貰う必要がある。つまり、メンヘラ内部の対立があれば、それを「相互理解」によって緩和しなければ、団体は「特定のメンヘラ」のための団体になってしまい、正当性を失い、衰退や崩壊へとつながる。

ちなみに、代表者の小山晃弘氏は様々な角度から広い意味でのメンタルヘルス問題に切り込み、それに限らない、様々な論考を発表されている方でもある。興味有る方は以下のnoteを参照。対立がある問題にも、自身の明確な立場を表明するタイプの人である点には注意。とはいえ、単に一方的というわけではなく、対立構造を明らかにすることも試みて、最低限の一時停戦を呼びかける、というスタイルの論客だ。

さて、論点にしたいのは何か。これら一連のとりくみを「相互理解」の観点から見たらどうだろう。発話の宣伝や、相談形式のコミュニケーション、これらは異なる立場の「メンヘラ」同士の対立を和らげ、相互理解を促進できるか?それを取り巻く外部の対立を悪化させないか?さらには、これを直接「メンヘラ」以外の対象へと一般化し、真の意味での「表現の自由の擁護」の方法として取り入れられるか?

これが「うまく行かない」ということは、一連のnoteを読んでくれている方々には、もはや説明するまでもない。いまや、対立を調停しようとする行為それ自体が、アンチパターン、つまり対立の駆動システムだ。

だが、日本においては数少ない、対立や問題点をある程度前提として、信頼感の醸成を目的に掲げたインターネットコミュニティ・システムなので、ヒントも多そうである。全てをゼロから考えるより前に、「失敗」の構造や、成功点を探っていこう。

現状が「失敗」でない、と考えられている方も、すでにメンヘラ.jpは「失敗」している、という点をとりあえず受け入れて頂きたい。まず事実、さまざまな「発話」、それは小山氏のものも含めるが、参加者である匿名当事者の素朴な発話もけっこうな頻度で「炎上」し、そのたび対立は激しくなっているのが観測される。たとえば、メンヘラvs非メンヘラ、男女格差問題、メンヘラ内での辛さの格差、そもそもメンヘラ.jpの活動や小山氏自身への疑い、などなどが争点だ。つまり、対立の存在は明らかだ。詳しく論点を知りたい方は検索して頂きたい。罵倒合戦に近い内容も有るので注意。

一連のnoteを見ていただいている皆さんには耳にタコだろうが、これはそれぞれの発話の内容が主因ではない。それはむしろ結果だ。先に調停し難い対立構造が有るので、どんな発話もそれを強化する方向でしか聞けなくなり、それに引きずられて発話は対立に向けてますます激しくなる、無限地獄と言える。

対立している人々は「敵」を悪罵し、その採用する前提や論法が間違っていることを「論証」しようとする。中立派は本気で停戦を叫んだり、あるいはもはや調停を諦め冷笑するが、どちらにしても、そこにまた隠れた「敵」が見いだされる。

そこに安全な「場」を用意しよう、という発想は、正しいが、単純すぎる。いまや「場」も単なるプレーヤーに過ぎない。そして「場」に信頼感を構築するのは、生半可な努力、どころか、何人もの人間の全力の努力ですら、かなり難しい。まず問題は努力の方向性だ。何をすればいいのか?

目的は、「場」の内部での発話、を信頼性の欠如した外部から眺め、攻撃されたときの安全性の確保。そしてその結果、対立をこえた「相互理解」へと、微小でもいいので進むこと。内部だけの安全性だけでは弱すぎる。

・条件は、「場」の内部の努力だけで実行可能なこと。外部を直接変えようとしてはいけない。そして、だれかの「良心」に信頼性の源を頼ってはいけない。あくまで、「客観的なシステムと実績」による「信頼」。人間が「良心」を課し、示せるのは自分自身に対してだけだ。

・注意点は、これはすこし努力しただけでは到底不可能なほど難しいとまず認識すること。できないのが当たり前なので、すぐ絶望しない。楽観的にもならない。色々考える。

では、以下でこの観点から具体的に見ていこう。

2.停戦、呉越同舟、カウンセリング・マインドの無力さ

まず重要なのは、メンヘラ.jp特有の理念というより、そのコンテクストである「停戦」「呉越同舟」「カウンセリング・マインド」的な単純な理念自体がアンチ・パターンであるという事実だ。

インターネット言論空間において、「誰も撃たない」とか、「みんなの利益のため」と発言することなど無理だ。本当は撃ちたいけど、棲み分けしよう、というのも無駄だ。なぜなら、「私は誰も撃たない」「みんなの利益に」と叫ぶこと自体が、「撃っている」人、「より狭い範囲の誰かの利益」のため戦っている人への「攻撃」とみなされてしまうからだ。それは撃つべきではないとか、間違っているという主張に「読めて」しまうからだ。寛容の呼びかけは、踏みつけられた弱者には投降勧告に見えてしまう。誰かを騙す撒き餌に見えてしまう。イニシアチブを取るための錦の御旗に見えてしまう。そして「寛容」「停戦」という理念自体のコンテクストが「綺麗事」として汚染され、ますます対立を増し、自己矛盾に陥る。

あるいは、本物の信仰者の如く、ただひっそりと、辻カウンセリング的行いをインターネットの片隅で行う人や団体もいる。私はそういう人たちを尊敬してはいるが、それは無力だ。それは第一に宣伝合戦で敗北確定であり、第二に自分のセミナーや金儲けに誘導する悪人と一見区別がつかず、第三にカウンセリングにアクセスできない人々には決して届かない。そして第四に、個人の努力として行ったら一方的に他者を受け入れるコストにより疲れ果ててしまう。ゆえに「カウンセリング・マインド」もまた優しいが無力な信仰、詐欺の手口、せいぜいが職業のための特殊技能とみなされる。これもまた、絶望を生み、多くの弱い人々は手頃な対立へと身を投げていく。

もちろん、それは仕方がない。個人は無力である。個人の群れも無力である。システムによって組織された、お互いの良心を信用していない、政治的利益によって結びつく集団が必要だ。そしてその団体が勝手に掲げる「政治的利益」の旗に「全てのOOの人のため」と書いてあり、それを追求しているということが敵対者にも明らかである必要がある。これによって、集団は拡大し、民主主義において実行力を持ち、それにより敵対者にも一目置かれ、本当の意味で「信用」される。これらを、活動の理念として堂々と掲げる必要があるだろう。

上記が最初のアンチパターンと、その「修正方針」だ。

3.「代表者たち」の信用と「場」の信用

そして、上記の観点をもとに、代表者である小山氏の発言が信用を毀損していたのが「問題」であるという観点。

先程述べたように、小山氏は様々な「対立」のある論点、例えば「メンヘラ」の男女差問題などセンシティブな争点に対して、かなりしっかりとした意見表明を行っている。その上で、対立の一時棚上げを提案してきた。

これは対立を悪化させる。そして、必ずしも内容の過激さなどは関係ない。「対立」の調停が個人の政治主張のための利益誘導である、と疑念が持たれてしまった時点で詰みだ。調停のコンテクストは汚染され、対立は対立を生む。疑念への反駁は言い訳に、沈黙は無視に、譲歩は降伏宣言に見える。ゆえに両陣営から、そして中立派から全面攻撃を受ける。

これを続けているうちに、「一応、中立を求む」立場であることすら維持できなくなり、行っている本人の思考も偏り、暴走を始める可能性もあるだろう。そして、代表者、および取り組み自体も崩壊へと突き進む。実際に小山氏、メンヘラ.jpの現状がそうである、かどうかは論じない。みなさんで判断していただきたい。

ではどうするか。

単純に代表者に、「対立」にかかわる発言をさせない?「代表者」がいるというコンテクスト自体を消臭する?あるいは、複数の代表者を建てる?

実は論理的に可能なのは最後の1つ、複数代表者だけだ。

まず最初の「沈黙は金」作戦は、そもそもの活動方針ゆえに不可能である。いま、「対立」を「前提」にそれを相互理解により「緩和」しようとする発言、それ自体が鋭い「対立構造」への意見表明だ。それは、対立が誰かのせいだと思っている人を否定する。対立など解消すべきでないという立場の人間を説得できない。対立など存在しないという人間には全て無効である。あくまで、対立構造に1つのプレーヤーとして入って行くしか無い。沈黙は不可能だ。そして、一度対立構造に入ってしまうと、関係する別の対立へ意見表明しないことは、疑念を生む。その段階で回答しても言い訳になる。詰みだ。

次の「中の人などいません」作戦も、ほぼ同様のロジックで無理がある。またそもそも、これをやると活動自体を「広報」し、場の宣伝能力を増大させるという行為自体が一気に難しくなる。ちょうど、今の私のnoteみたいな感じで、端の方で誰かが勝手にやっているものから永久に抜け出せない。それは致命的だ。

あくまで、一貫性と宣伝能力を維持した上で、疑念を解消する必要がある。つまり、複数代表者制しか不可能だ。しかも、それらの人々はなんらかの「陣営」について、人数比的に偏りすぎていていけない。「中立派」だけではダメなので注意。たとえば、男女メンヘラ対立の文脈で言えば、男メンヘラのほうが支援が足りない、という立場を擁護する人と、その逆、女メンヘラへの支援を主張する人、中立派、の全てがメンバーに必要だ。

そして単に、複数の対立する「代表者たち」を選出するだけでは、外側の対立を輸入しただけで、意味がない。ストリートファイトが金網デスマッチになるだけだ。つまり、「代表者たち」には特別のルールを課し、行っているかを判定できるようにする必要がある。

代表者は「場」の信用、つまり代表者以外の賛同者、敵対者、日和見派の発話の安全性を、「代表者たち」以外には損をなるべくさせない形で担保する必要があり、それにどれくらい貢献できたかで評価される必要がある。その評価が、「代表者」の信用となり、それらを相互に増加させていく。

もうすこし具体的に、以下で見ていく。

最初に課される規範は、2つだ:

「コンテクスト確定権を放棄し、なるべく提案として発話する」

「自分への批判的発話の、形式や正当性を限界まで問わずに受け入れる。ただし、間違った内容には堂々と反論する。」

なぜこれをやる必要があるのか、について詳しい話は私の他のnoteを参照。長いので、とりあえずは読まずにスルーして頂きたい。ようするに、なるべく疑念を持たれず、疑念を解消しようとする姿勢をもつ。

もちろん、これは字義どおりにやると相当難しい…というか多分そのままでは無理だろう。ちなみに筆者はこれを本note全体、つまり自分自身に課そうとしたが、論考自体の崩壊の危険性を感じ、すぐ中断している。まあとりあえずは、規範として掲げ、やっていない代表には警告や、代表者追放などの措置をシステムとして講じる、という方式しか無いだろう。

次に、これも重要だが、対立する「代表者たち」には後から別の人間が入れるようにすることである。総数を無制限に増やすのは無理があるので、明文化したシステムが必要だろう。無条件でもいけない。これは絶対に解除できない「運動」vs「世間」という対立を緩和するための要請だ。「我々の行動」が、「我々のためだけの行動」になってしまったら、もはやそこまでだ。

そして、これ以降が最も重要で難しいのだが、とりあえず提案する。

「「対立」する問題に対して言及するときは、対立する陣営に立った、複数の論考を建てて、全力で主張することを要求する。ただし「中立派」も単なる一つの陣営とする。「中立・停戦派」「中立・傍観派」ぐらいには解像度を上げる。」

うーん。これはちょっと要求し過ぎだろうか?だが要求は更に激しくなる。

「上記を、単に一般論について語るときだけでなく、代表者以外の一般参加者の発話が「炎上」したときには常に行い、その影響を採点できるようにする。つまり、代表者はどれだけ「場」の安全性に貢献したかで評価される」

皆さんはどう思っただろう。そこまでやる必要がある?とか、まあこの程度はやるべきでしょ、と思われただろうか。あるいは、言っていることの意味がよく分からん、ちゃんと定義しろよ、という方もおられるだろう。

だがまだ、しっかりとした定義は詰められない。それ自体がコンテクストの勝手な確定に見えてしまい、疑念が埋め込まれる。とりあえず上記が必要だと思い込み、適当な定義で走らせて、批判の声が大きくなったらその都度システムを修正していく、以外にはないだろう。そのためにはまずPVが必要で…というのが難しさなのだが、とりあえず要請は以上だ

もう一度述べる。代表者は「場」の信用、つまり代表者以外の賛同者、敵対者、日和見派の発話の安全性を、「代表者たち」以外には損をなるべくさせない形で担保する必要があり、それにどれくらい貢献できたかで評価される必要がある。その評価が、「代表者」の信用となり、それらを相互に増加させていく。

損をさせて良いのは「自陣営」ではない。例えば、「まず男メンヘラの立場を擁護したい!」という人が代表者の場合、「男メンヘラ」陣営にもなるべく迷惑をかけてはいけない。いざとなったら異端者としてパージされる危険も受け入れる。「女メンヘラ」に入れ替えても、「中立派」などでも全く同様。

これがどれくらい難しいのか?難しすぎる場合、緩和できるか?やってみないとわからないだろう。私には今の所、実行不可能なのでとりあえずこの辺で切る。

「代表者たち」の信用と「場」の信用についてはここまでだ。

逆にこれさえクリアできれば「構造的」な問題は消えるだろう。

4. 成功点とその拡張可能性

ここまでが重要なアンチ・パターンだったが、成功点もある。

明確な成功点は、対話コミュニティと福祉・医療行政への接続支援との一体化である。これは、これ以降のすべての取り組みで参考になるだろう。

現在日本では基本的に、行政に置いて申請主義を採用している。雑に言ってしまうと「助けてほしい人は、形式を揃えて役所か病院に来い」という方式である。

この問題点は明らかだろう。自分が抱えている問題が何で、それはどこに行けば解決するのかを、自力で調べる必要がある。それができない人は、基本的に放置だ。とはいえ、完全に行政側主体で行う、職権主義的な制度への移行も、個人情報問題や職権乱用の危険から現実的ではない。

この問題を接続支援によって緩和することは、参加者の明確な実物的メリットでありながら、当然の権利なので、対話コミュニティの実に良い宣伝方法である。

これを解決しようとする様々な別の取り組みはすでにある。が、実は多少の優位性が主張できる。例えば、特定の政党が接続サービスを行う時、それは支持者への利益誘導に見えてしまう。それ自体を目的とするNGOなら、貧困ビジネスのレッテルを貼られかねない。私が言っているのがひねり出した難癖だ、と思っている方は、ネット世論に疎い方なのでご注意を。同様の主張をされている方々はたくさんいる。その時点で、真実かどうかはもはや関係がない。

しかし、「コミュニケーション支援、つながりの拡大」を主目的として掲げる団体が行えば、どんな立場の、誰に対しても宣伝を行っているという建前に信頼性が増す。ただし、実際にあらゆる人を支援する必要はある。必ずしも自団体で行わず、適当に他の団体に二次仲介として協力要請をすれば、それらの団体とのバッティングも起さない。専門性の欠如という批判も回避できるだろう。

無論、これを行う人件費というコストは問題だ。そしてクラウドファンディングを行う以外に手はないだろう。これはメンヘラ.jpは行っている。ただし重要なのは必ずしも宣伝ではなく、正当性の確保だ。

ただあえて言うなら、単に特定の接続サービスを行うのではなく、参加者から要請があり次第、サービスが追加できる必要もあるだろう。これもコスト面から言えば厳しい要求では有るが。

5.まとめと結論

いかがだっただろうか?簡単に要約を試みる。

・今、メンヘラのための利益団体の運営には、メンヘラの中での対立の一時停戦、呉越同舟が不可欠である。そしてそれこそが最も難しい

・一時停戦、カウンセリング・マインドを前提とすること自体が自己矛盾

・代表者とシステムにより、危険な対立の場に安全性を構築する必要がある

・既存行政サービスとの接続により、信頼性と参加する利益を高めるべき

・支援を訴えるために必要なのは、宣伝ではなく、正当性の確保

なかなかに難しい要求だった。だが、そもそも、いまある問題は難しい。ひどく難しい。それを認識するところからだろう。

しばらくは、この形式で色々な団体やシステムのアンチ・パターンの解体を試みていきたい。

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