「世間」の島宇宙としての日本:客観的に「ゆるす」福祉システムを導入できるか?

以下の内容は、素人である私が最近勉強した内容に基づいています。いつもより更に多くの間違いや独自解釈が含まれる可能性が高いです。文献は末尾に示すので、注意してお読みください。

本note以降ではとくに、法学者の佐藤直樹氏著”なぜ日本人はとりあえず謝るのか 「ゆるし」と「はずし」の世間論”をメインにしているつもりだが、いつも言っているように、私という翻訳を介すると全く疑わしい。みなさん自身で参考文献を読んで頂ければ、本noteは不要だろう。

世間学、という学問をご存知だろうか?歴史学者、阿部謹也が提唱し、細々と受け継がれ、あるいは批判的に検討されてきた学問である。ややマイナーだが、以下に示すように重要で、今まで見落としてきた日本特有の対立のコンテクストだと言えそうだ。私のnoteにも役立ちそうなので、軽い勉強にお付き合い頂きたい。関連する一般書の内容から要約を試み、私自身の解釈と合体させる。どこまでが引用で、どこからが私のアイディアなのかは敢えて述べない。限界まで疑って頂きたい。

西欧の社会と日本の「社会」はその歴史的成立が全く違う。何を当たり前な、とおっしゃるかもしれないが、私にとって重要なのは対立構造の明らかな違いだ。

一応、私の解釈と主張のまとめを述べる。

日本は細切れになった小さな「世間」が「ウチ」「ソト」で区別され、それらが浮島のような構造となっている。世間には最低限の共有ルールが有り、それによって違反者を「はずし」、ときには「ゆるし」ながら、秩序を維持している。

今我々はその間で様々な「多数決」合戦を行っている。どこかの島同士で争っているときも、お互いに対しては語りかけず、ただ全体としての「世間」に対して騒ぎ合っているだけである。「議論」が成立しないのも、全体としての「世間」では、議論とはなにかが共有されていないからだ。

新自由主義的な意味での「自己責任論」つまり、個人の経済活動の結果責任はすべて個人にある、というのは実は「世間」全体には受け入れられていない。それは単なる一個の強い「島」のルールで、強力ではあるが、これだけなら破滅的な問題にはならないはずだった。だが、これは対立の強力な動機になった。経済活動は、誰も逃れられないうえに非常に不平等であるからだ。とくに、氷河期世代など、特定の世代に不利なイベントはそうだ。

これら経済的不況と経済レベルの「自己責任論」、そしてインターネットを始めとする、伝達力の向上。これにより日々増していく、終わらない、争点のよくわからない対立を人々は嫌悪。「世間」の曖昧さを解体するため、皆が同意できるはずの「客観的」ルールを強めようとする。たとえば法の支配など厳罰化により強化しようとするのが近年の流れだ。

これは、「世間」のルールである「はずし」つまり世間からの排除を強め、「ゆるし」のちからはそのままだ。「客観性」は、特定の誰かやグループを限界まで「ソト」に排除するための強い攻撃材料となってしまう。その結果「ゆるし」が相対的に弱すぎ、機能しなくなってしまい、一度「客観性」によって決定的に排除されたら「ウチ」にもどれない。戻すためのシステムがない。

そこで恐怖が高まり、「客観性」にはなるべく合意したくなくなってしまう。これによって島ごとの認識と世界観はばらばらになる。

これが、私が解体したいと思っている最悪の「自己責任論」だ。「客観的に明らかに排除すべき」なので「排除してよい」。これが消えない限りは、「客観性」については何も合意できないだろう。

つまり、既存の島ごとの停戦協定や、個別の改革などでは、たぶんどうしようもない。SNSのルールづくり、政党改革、そういったものは多分何の意味もなく、ただ分断を加速させるだけだろう。

こう言った問題にどうアプローチするか。問題は「ゆるし」と「はずし」のバランスだ。一括して人を「ゆるす」ためのなるべく客観的かつ強力な、法によって裏付けられた福祉システムを構成できれば、勝利だ。

今までの主張「法に直接たよらない」と矛盾している?いや、このシステムを運営するには国民の超努力が必要である。法の成立だけでは意味がない。

福祉といっても、今までに無い観点での「福祉」だ。経済力とか、衣食住を担保するのではなく、「世間」の「ウチ」に戻すための福祉だ。

これで希望が見えてきただろうか?皆さん次第だが、草の根の努力などに頼らず、一応政治運動として実行可能性があるため、今までの完全な机上の空論よりはだいぶ行けそうな気もする。

まあ問題は、「ゆるす」ためのなるべく客観的かつ強力なシステムって何よ、それどれくらいコストかかるんですか、ということだろう。

ここからは全く個人の「アイディア」だ。皆さんで考えよう。

一応、私はあえて大上段に次を主張する。

結局、全ての失業者を無条件に完全終身雇用するシステムが必要だ。さらに犯罪更生、とくに軽犯罪者の治療・更生制度を強化。傷病者支援制度とも接続。できれば教育、芸術、娯楽分野も参加する。これを人々を「ゆるす」ための強力な一体型システムとして整備する。

いきなりの超飛躍?しかし、実現可能性はともかく、これぐらいのことが必要だ、ということはさらに次のnoteで一応述べる。「世間」の「ウチ」に戻るのは、実際大変なのだ。

まあ要するに、生活保護を超強化し、お題目だった健康で文化的な最低限度の生活を実際にこの世に誕生させようという、ここまでだと、何処かで聞いたような話だ。実際政策として主張している人やグループは多い。それらと違うのは、誰かに金、職や娯楽などの財物を与えたり、それによって経済を回すのが目的ではないという点だ。経済政策ではあるが、目的は経済ではなくコミュニケーションの回復だ。

今注目している問題は単に生活ではなくて、誰かが 「世間」の「ウチ」から追放されてしまい、戻れないということだ。「ウチ」に戻りたい人をなんとか戻すための能力を与えてあげるのが真に重要だ。

また、重要なのは単にこのシステムだけではない。システムの導入の仕方、システムをどうやって創り出すか、そのプロセスが一番大事だ。簡単にどこかの政党が「政策提言」するだけではダメだ。

本noteも、だいぶ素人の政治談義じみてきたが、お付き合い願いたい。

やや要約が長くなったので、noteを分割して、次のnoteで「ゆるし」の福祉システムが必要だというところまでの私の思考を詳細に書く。

そして、「超生活保護」的な「アイディア」がなぜ必要か、実現可能性は?などの妄想をその次のnoteで述べていく。


参考文献

中村圭志 著   (ディスカヴァー携書)

     "西洋人の「無神論」日本人の「無宗教」"

阿部謹也 著  (講談社現代新書)

                   "「世間」とは何か"

佐藤直樹 著    (PHP新書)

"なぜ日本人はとりあえず謝るのか 「ゆるし」と「はずし」の世間論 "

鴻上尚史 著(講談社現代新書)

"「空気」と「世間」"

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