デュシャンの会話。それも作品。

『デュシャンは語る』
マルセル・デュシャン
聞き手:ピエール・カバンヌ
訳:岩佐鉄男・小林康夫
ちくま学芸文庫(筑摩書房)
注:この書物は、『デュシャンの世界』朝日出版社1978年刊の再版である。


デュシャンの芸術表現を考えるとき、そこには必ずといっていいほど“思考”という概念が持ち上がる。概念と言うよりも、デュシャンの場合それは“運動”といってもいいだろう。

表現に携わる人ならばたいていはその“思考”することから無縁でいるはずはないが、だいたいは思考した後の表現されたものが作品であると思われている。絵画に限らず、音楽でも文学でもそういった状況はしばしばかいま見られる。
作品には作者の思考がどのように発現しているのか。作品から作者の思考が発現していることを鑑賞者は受け止め感受することが出来るのか、ともいえる。思考したからこそ作品が生まれているのは当然だが、その作品には作者の思考が生きているものとして発現しているのかどうかは、まさに、作品による。

優れた表現作品はほぼ例外なく、作品から作者の思考とその運動を感じることが出来る。
だから、デュシャンのみが作品から思考とその運動を生々しく感じることが出来る作家であるというわけではない。しかし、デュシャンに特有の不思議な現象というものが確実にある。それは、思考が宙を漂っているということだ。思考が着地することを拒絶するかのようなたたずまいを見せ、作品の周囲を移動しているかのごとく常に運動しているのである。これは、ただごとではない。
作品は確かにここにあり、それは未完であるないに関わらず、完成されたものとして目の前にあるが、どうも妙な気分であり、見ている鑑賞者である自分の思考を激しく誘惑する。つまり、デュシャンは作者として制作したその作品において、自らが思考したというそのことを、現在も止まることのない運動としているのである。

だからこそ、このようなインタビュー集が誕生するのだ。
ここでの聞き手はピエール・カバンヌである。彼は美術評論家かもしれないが、紛れもなく鑑賞者のひとりでもある。デュシャンにはそれがよくわかっている。ここで交わされている会話は大変に長い。このようなインタビューが存在すること自体、デュシャンの特異性を図らずも物語っているといわねばならない。
ここでのデュシャンは、会話すること、作品について語ることに対して非常に積極的であり、むしろ饒舌だ。しかし、言語に対しては非常に懐疑的である。言語、あるいは、単語、だろう。別の言い方をすれば、具象としての言葉ともいえる。徹底してそれらから距離を置こうとするデュシャンを、我々はこの書物から感じることが出来る。読み進めるほどに、何かの結果生み出された何ものかは、デュシャンにとってはすべて興味の対象外にあることがわかる。デュシャン自身の作品についても、それは同様だ。
タブローを拒絶し、作品には鑑賞者が必要で評価は後世が決めると言い、思想や意味を遠のけ自分の作品を単に“もの”と呼んだデュシャン。だからこそ、作品の周辺に“思考”とその運動が際だつ。
このインタビューでのキーワードは、たびたび出てくる『おもしろい』というデュシャンの言葉だ。その言葉の周囲にはデュシャンに近づける空気がただよっている。
語ることそのものも、デュシャンにとっては作品なのである。
なぜなら、そこには聞き手、つまり読者がいるからだ。

デュシャンの芸術表現を考えるとき、たいてい“思考”が思い起こされるそのわけは、実はデュシャン自身がこのインタビューの中でその解を語ってくれている。
デュシャンにとっての芸術作品とは、着地した結果の固定点ではなく、媒体としての動的な浮遊点であり、意味や思想の対象化ではなく、媒体を通した思考の交差であることが、読み進むほどに了解できるだろう。

この書物は、現在入手できるデュシャン書物の中で、もっとも安価で入手も容易。翻訳も丁寧で読みやすい優れた一冊である。作品も、収録数は決して多くはなく、しかも小さくてモノクロであるが、掲載されているということには大変意義がある。
といっても文庫本の宿命、いつ絶版になるともわからないのでお早めに入手されたい。

Nori
2012.5.3
www.hiratagraphics.com