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ポジティブな人の、ネガティブな一面を見てビックリした話

いつもいつも「ポジティブにいこうぜ!」って言ってた人が、ある部分に関してはネガティブすぎてビックリしてしまった。

「そこだけはトラウマあるから、かんべんして」と。


「え? いつも、気の持ちようだ」って言ってたじゃん。

「無理だと思うから無理なんだ」って言ってたじゃん。

それって矛盾してるじゃん……。


「だって、しょうがないじゃないか。昔こういうことがあって、こういう劣等感があって、どうしても、こう思っちゃうんだから。お前みたいな勝ち組の人にはわかんないよ」、と。


いやいや、私は勝ち組だなんて1回も思ったことないし。

それどころか、むしろ負け組で自信ないくらいだし。

そう言うたびに、それは言い訳なんだと、説教をくらってたのは、こっちなのに……


なんだか追い詰めているような感じがしてきて、申し訳なくなってきた。

急な態度の変わりように、衝撃がハンパない。

批判ではなく、本当にビックリしすぎて「口があんぐり」といった状態。


つまり人は、自分の得意な分野でだけポジティブで、苦手な分野に関してはネガティブってことなんだ。

小さなことで言えば、個人的にはエクセルが得意なんだけど、エクセルに関してネガティブに考えたことは一度もない。

調べればできるし。やればできるし。

自分なんかがやったところで……なんて思ったことは、ない。

「できない」と言う人を見ると、調べればできるのになぁと思う。

ちょっと次元の違う話かもしれないけれど、かいつまんで言うと、そういうことなのではないか、と。


私たちは、苦手な分野でポジティブになろうとしすぎている

苦手なことばかりが目についてしまうから、苦手なことばかりを何とかしようとしてしまう。

苦手なことに関して、ポジティブにならなきゃいけないんだと思い悩んでしまう。


いや、見方を変えれば、きっとあなたもポジティブなんだよ。


そもそも得意なことって、当たり前にできすぎてしまって、「得意だ」ということに気づけない。

自分にも「得意なことがある」とか、「実はポジティブだ」とは、なかなか思えない。

気づいてないだけ、ってのは、けっこうデカいんじゃないかと思う。

自分の姿を知ったら、それこそ衝撃を受けそうだ。


それに。

ポジティブかネガティブかっていうのは、「評価」になるから、必要ないのかもしれない。

自信があるか・ないかも、関係ない。

否定か肯定かも、関係ない。

そんなこと、本当はどうでもいいことで。


評価も、解釈も、判断も、ジャッジもしない。

それが、ありのままを受け止めるということ。

ただただ、「あぁ、自分ってこうだな」と思うだけ。


ポジティブな人を見ても、きっとネガティブな部分も抱えてるんだろうなぁと思うだけで、印象が変わってくる。

この人は、この分野でポジティブなのね、と思ってれば、萎縮することもなくなる。

この人のネガティブは、どこにあるんだろう? と想像するのも面白い。


そんなこんなで、ポジティブ・ネガティブはどっちでもいいけど、ネガティブなら、ネガティブらしくいこう。

よくよく考えていくと、「ネガティブだ」って認めることは、とてもポジティブっぽいし。

「自分は自分を否定しすぎる」って認めることは、肯定っぽいし。

「無」という状態は、「有る」のか「無い」のか、っていう議論と同じようなもんで。

突き詰めていくと、「どっちでもいい」としか言いようがなくなる。


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