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無職になって半年経った今思うこと


さて前職YouTuberはなおでんがんを解散して早半年が過ぎてしまいました。


30代に突入し、時間の流れもだんだんと早くなることはわかっていたから、
「一日一日しっかり大事に生きよう〜」なんて思いながら過ごしてました。
ただそんなつもりでも、ここ3ヶ月の経過の早さは動体視力8.0の自分でも見逃してしまうほどでした。

忙しいと時間が過ぎるのが早いのはまだわかる。でも怠惰に過ごしても時間ってあっという間なんです。まったくなんと非情なことか。

で、「そろそろエンジンかけようかな〜どうしようかな〜」と、このぬるま湯のような現状に浸かりながら風呂から上がるタイミングを見計らっている今日このごろ。

実際、貯金的には何年か働かなくても問題はない。
ゆえに「お金のために頑張るっ」というのは風呂からあがる動機としてはちと腰が重い。じゃあ「今やりたいことを目一杯頑張る」を理由にぬるま湯からあがるか。

この上なく贅沢な理由だろう。だが「頑張る」というのはつまるところ、結果を出すことにこだわることと同値な訳で、それはつまり「富、名声、力」なわけで。ゴールド・ロジャーなわけで。
もちろん、やるからには結果を出したいと思うのは当然の性である。自分は今、新しいYouTubeチャンネルで一からまた積み上げている最中ではあるが、かつて若人であった自分が抱いていたような「ぜってー有名になってやる」みたいな青っこい野望はもうない。

じゃあ何かというとたぶん今自分が目指してるのは「ライフワークバランス」な気がする。これは目標でもなんでもなく、ただのプロセスの話になるけど…。

どうやら今の自分は最終的なところにある「幸せ」を高めることに興味があるらしい。汗水垂らして働くこと、恋人とのデート、部活で仲間と汗を流すこと、これらはすべて人がより幸せになるためにあるはずだ。

普段生きていて、「今してるこの行為は幸せに繋がっているのか?」などといちいち問いながら過ごす人もいなかろう。
そんな哲学的な自問自答をする余裕があったら、ゆっくりサウナにでも入りたい。そう思うはずだ。皆様の多忙さに敬礼。


ただ、今の自分にはそういう気にもとめないようなことをひとつひとつ吟味する時間がある。暇人ここに極まれり。

やっかいなことにYouTubeというのはそのシステム上、成功し続けなければならないという強迫観念のようなものがあると思う。

たとえ成功しても、その成功した土台に自分は立ったんだと意識してしまったら最後、そこに居続けたくなるし、居続けなくてはと思ってしまう。

ありがたいことにこの8年でその感動と息苦しさは十分に味わわせてもらった。

眼の前のことに必死で、本来拾っておくべきキラキラした石を何度か走りながら素通りしてしまった気がする。

もちろん全部を拾える人は稀だと思う。

けど今はそういう石っころたちを、ゆっくり歩いてはいちいち腰をかがめ、注意深く見てみたくなった。拾ってみたくなった。

これは本物の宝石か?それともキラキラしてるけど自分には価値のないものか?そういうラベリングをしたいお年頃。

最近知ったが、庭のコンクリートにこびりついた苔をキレイに掃除することは存外自分にはとてもキラキラしていることだとわかった。こんなことは昔なら絶対しなかったろう。

平日のまっ昼間から、そこそこ若い働き盛りのおっちゃんが活き活きと掃き掃除している光景など、近所の人に見られたらそれこそニートと勘違いされてしまう。
これが本当にニートなのだからなおさらまずい。


ただ、そんなことはどうでもいいほどに、気持ちがいい。

青空の下、澄んだ空気を吸いながらザッザッっと無心でゴミをかき集める行為はなんだかとても心洗われるのだ。
町と生きている感じがする。この町の住人なんだと実感する。


無論、普段からこういうことをしている人には何を言っているのかさっぱりわからないと思う。ただ今までの自分は自分がやるべきでないことはやらないというのをそれなりに徹底していた。それもあってか、自分の行動は社会的に自由でありながら、自分自身によって束縛されていた。


幸せとはつまるところ食生活のバランスのようなもので、
偏ってもダメなんだと思った。
成功に特化しすぎても。怠けすぎても。人に依存しすぎても。人から離れすぎても。

たしかに、夢のために時には血反吐を吐く思いでつかみ取らないといけないフェイズはあると思う。お金のためには苦手な人と関わらないといけない期間もあると思う。
でもその時に不足した分の幸せの借金は、どっかで回収せなあかんのだと思う。



たぶん自分は今、そういう日常っぽい幸せの借金をかえしている。

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