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「ひきこもり」「当事者」「支援者」「研究者」

先日、
zoomで行われる、
「日韓ひきこもり交流会」ってのに
参加した。

僕の韓国語の先生が、
日本人なんだけど、
韓国でひきこもりの支援活動を
していて。

生徒の僕らに
「もし、興味あったら・・・」
と、ちらっと言ってくれて
僕、興味あったから。

参加表明するサイトでの
登録事項で
「どのようなお立場ですか?」
という質問で、
「やっぱりやめようかな・・」
という気持ちになった。

「当事者」、「支援者」、「研究者」。
ここらへんが
当てはまるのかな?

「当事者」。ではないか・・。

「支援者」と言っても、
誰に、何の支援活動もしてないぞ?

「研究者」とか言っても、
日々、考えているだけで、
僕、何の表明もしてないし・・

哲学的に考えていても、
誰かと何かを話す、
そんな「社会」に参加した状態で
この「考えている自分」を
出すことは
ほとんどない。

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でも、だからこそ、
参加してよかった。

僕は「当事者」である
と想ったし、

表裏一体で
「支援者」として
活動される方々は
「ひきこもり」という
「問題」を創り出して、
「支援」という「仕事」を得ている。

そんな社会の構造に
氣付いた僕は、
「地域若者サポートステーション」の
職員を辞めた。

「当事者」と「支援者」の
相互依存関係を絶ったので
全く、
現場の「当事者」から
離れてしまった。

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でも、その気持ちはいつも、
「ひきこもり」を「問題」として
循環させてしまっている人たちに
向けられている。

そんな社会に向けられている。

「そこ」を問題として
固定化して、
社会を安定させんなよ!

強い憤りと共に、
彼らを救うには、
僕が生き生きと生きて
生き、示すしかない!

そう想って、
2011年、ずっと憧れていた
「困っている人を支援する仕事」を
ひととおりやって、
辞めた。

2011年は
被災地へのボランティア活動、
ニート、ひきこもりの就労支援活動、
とても「ボランティアの人」だった。

そして、
奈良に住む友人からの
「人が傷つかない魔法」という
演劇の舞台に
「役者」として参加してくれないか?
というオファーに乗っかって、
千葉、関東、実家暮らしを
終えた。

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何にしても2011年、
よく考えさせられる機会だった。

生きていくために必要な
「お金」というものを
考えさせられる機会だった。

けっきょく何をしたって、
お金は僕らに流れることはない。

死なない程度に餌を与えられている
家畜みたいなもんだ。

市場で「売り」「買い」されるために
必要な「装い」の価値とは
違った価値を求めてしまっているから。

その「装い」を
外し、本当に望んで創り出した
「自分」で生きることに
価値を見出しているのだから。

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市場価値を高めるための
「名付け」、ブランディングが
僕の足をもつれさせる。

(ブランディング『branding』は
『burned』バーンド、焼かれる。
つまり『焼印』と同じ語源である
と聞いて、
とても腑に落ちている僕です)

「名付け」とは
極端に言えば、
「言葉」すべてのことです。
僕らは使う言葉にすべて
名前を付けて「概念」を捉え
世界観を構築する。

支えてもくれるが、
それは「本質」でもない。

「ひきこもり」
「ボランティア」
「支援」・・・

ここらへんを
ライブ活動で使う
自身のプロフィールに
書き加えたこともあった。

スッゲー違和感があった。

良いことしてますアピールが
気持ち悪かった。

社会的に承認を得て、
価値を感じてもらおうとする
アピールで、
僕自身の市場価値を
高めようとする行為・・

気持ち悪かった。

そして、その「良いこと」にも
市場価値としては
大した価値でないことにも
気づいた。

そんな利益にならない「良いこと」に
市場は大して投資する気に
ならないものである。

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今の日本、
「生きづらさ」を
抱えている人が
多いみたね。

そりゃ
こんなアピールしなきゃ
生きていけない世の中。
そんな「ブランディング」の
構築で、
頭を悩まし、
「固定化」するための
「言葉」を創るのに
時間を費やす世の中。

生きづらいよね?

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「言葉」は「かりそめ」として
とても役に立つツールである
ということも、
「日韓ひきこもり交流会」で
感じさせてくれた。

韓国より日本の方が
「ひきこもり」という
言葉が作られ、
認知されてから
より年月が経っている。

だから、
「問題」が
「社会問題」として、
堂々と、
僕らの共有概念として
存在している。

だから、
様々な確証と共に、
日本の「当事者」の方が
しっかりとした発言が
多かったように感じた。

まぁ、日本主催のイベントだったから
という理由もあるだろうけど。

韓国は「Hikikomori」のことを
「隠遁型独りぼっち」「은둔형 외톨이」
という「名詞」を得て、
この10数年の間で、
徐々に共有概念として
広まっているらしい。

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当時の当事者は
自分の異常性に
名前が付いていないと
困惑したことでしょう。

「ひきこもり」と
名前がつけば
「あぁ、僕は『ひきこもり』なんだ」
と、
落とし所を見つけられるでしょう。

でも、
本当に「ひきこもり」なの?

そもそも、
ひとことで片付けちゃってるけど、
「ひきこもり」って何なの?

それは・・・・と、
あの混沌とした苦しみを
またあの説明しきれない説明を
しなきゃならないことになる。

でも、
本当の問題って
何なんだろう?

僕は"ひきこもって"いないから
「ひきこもり」ではないのか?

「当事者」ではないから
「当事者」ではないのか?

この、詩的で哲学的な、
訳のわからない「問い」が
伝わるように話すまでに
2000文字も使ってしまった。

いや〜
なかなか「端的」に
話せないね。

もっと自分ごととして感じている
「問題」を
書こうと想っていたけど、
次の機会にします。

うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。