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「天才」と「秀才」

親の介護の日々となり、
かつて威厳と共に言い放っていた
(と感じていた)両親の言葉たちが、
昔と同じことを言ってるけど、
その不機嫌な思い込みに
付き合っていられないと感じると、
僕はどれだけ
親の(「世代の」かな?)
価値観の影響を受けて、
そうとは限らないのに、
従うにしろ、反くにしろ、
尺度として捉えていたことに
気付く。

例えば「天才」という言葉。

僕は
東北出身の
根は負けん気が強く、
「田舎では優等生(自称)、
都会に出たらただの田舎もん」
という出世したいけど出来なかった、
そんな父親のもとに生まれた。

そんな僕が
いつからか基準としていた価値観がある。

「天才」と「秀才」。

「天才」とは
努力無しで、上手に出来る人。
「秀才」とは
頑張って努力して、
上手に出来るようになった人。

どうでしょう?

日本語の価値基準として
共感できる人( ´θ`)ノ!

でも日本人よく、
「秀才タイプ」とか「天才タイプ」とか
言うよね?

だから共有できる価値観なんでしょうか?

さらにこれに加え、
親の影響か、
僕の性質だったのか、
「天才」より「秀才」の方が
カッコイイと映っていた。

努力しないで成功するなんて
ズルくね?

やっぱり成功した人が
かつて苦労人だったりすると
好印象な日本人だよね?

でもさ、

よく考えると、

「天」の才で生きる人生と、
「秀でた」才能で生きる人。

漢語のニュアンス通りで考えてみると、
なぜ誰かと比べて成り立つ「秀」に
好印象を譲ってきたのだろう?

一人ひとりが「天」からの才を担って
天才として生きる世の中って、
最幸じゃないですか?

「『天才』は限られた選ばれた人しか成れない。でも、『秀才』になら努力次第で誰もがなれるんだ」的な、今の僕としては的外れに感じる、両親の発言を憶えている。

これらがもし、
あの時代を生きた僕らの
共通認識だとしたら、
あの頃の社会性を幼く感じ、
新たな地平へ
行くべきだと想う。

何かの、
誰かが創った社会の価値基準に合わせ、
それらの「何か」をを基準に
「秀ていること」に
何の意義があるんだろう?

確かだと想っていたのに
その評価の基準が暴落する日もある
「かつて秀でていたとされる才」。

そんな「秀才」より、
生まれてきたなら必ず持ってる
「天から与えられた才」を
誰もが活かして生きれたら。

誰もが「天才」として生きれる社会だったら!

秀でるためには
競うための
価値の尺度が必要です。

それは誰かの創った何かの基準に合わせる
ってことで、
どんなに秀でてみても
源として置かれた
誰かからの賞賛をもらえるだけで
源(みなもと)には成れない。

何のために生まれてきた?
誰かの権力者に
仕えるために生まれてきたの?

「誰かの役に立ちたい」
「誰かに喜んでもらえることが好き」

そんな性分で
事に仕え、仕事されてる方々、
本当に素晴らしいです。

皮肉でも何でもなくてね。

それが成功の法則かもしれないし、
そんな人が報われないなら
そんな世はおかしいと想う。

でも、
せっかく生きるんだったら、
天と直結した才で生きた方が
楽しいだろうな。

比べて秀でた秀才の道は
しんどいだろうに。

誰もがどこかで
天の才で生きなければ
生きる価値を
見失ってしまうと思う。

誰が成功して、
誰が失敗したかなんて、
確かな基準は何処にもない。

唯一在るのは
僕ら自身の心の評価だけだ。

そしてその「評価」する存在は
誰かに向けるにしても、
自分に向けるにしても、
映して眺める
この自分自身そのものだったりするのだ。

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