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「詩」を歌う人として、音楽を選ぶ

今、迎えたい。
これから迎えようとしている現実。

いろいろ外れてきた。

うまくいくであろうと、想っていたこと。
うまくいかなかったこと。

「失って、失って、
残ったものが今、ここにある」

そんな感じのことを、
よく歌っている僕です。

手に入れたものは何か?

失って、失って、
残った、失われなかった元
のようなもので
触れた
大切な世界。

外に求めていたものは
僕自身が胸の内から
創り出した世界だった。

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詩的、哲学、観念的な書き出しに
なってしまいましたが、
今、これから迎えようと
想い描いている現実の日々を
記します。

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今、話があれば、
求められた、もしくは
そこで求められているであろうスタイルで
ライブ演奏なども、
ぼちぼちしています。

タイコを叩く、バンドのメンバーとして
だったり、
野外の大きなマルシェ的なイベントで
だったら、
タイコ叩いて、大きな声で謳ったり。

みんなで歌いたいという要望があれば、
その「歌いたい」という有名な曲を
ウクレレでアレンジして、
引率して歌ったり。

前衛的な即興パフォーマンスだったり、
演劇舞台のBGMだったり、
子ども向けに
有名な童話を暗唱して弾き語りつつ、
ウクレレでBGMなども
創ったりもした。

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求められたキャラクターに
寄せていく作業は
「自分」という可能性も拡がるし、
新しい表現、作品が創造される
機会にもなるので、
本当に有り難い機会だと思っています。

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でも、いつもそんな依頼「仕事」が
あるわけじゃない。

「仕事」を求め、
日々、そんな多種多様の
便利屋としての技術を磨いて
待っているほど、
カネモチでもないし、
飢えてもいない。

・・・言い方が難しいな。

ここ数回のnoteで書いてきたけど、
僕は今、そんなに「お金」に
困らないことにしたので、
(これ、何らかの勧誘のフックでは
ありません)
「お金になる手段」を考えたり、
そんなことに振り回されない、
そこに
頑張って労力を注がなくてもかまわない。
そんな視点から
人生を眺めることが
初めてできた。

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若い頃から順に
「街で歌えば誰かにスカウトされるかも」
「プロデビューすればプロになれるかも」
「集客を増やせば食っていけるかも」
「注目を集めることをすれば・・」
「みんなが知ってる歌をうたえば」
「ライブよりワークショップの方が
今は需要あるかも・・・」
「ウクレレ教えます」

う〜ん、
どうなんだろう?
どうだったんだろう?

世の中から求められていることを察知する。
それに応えられるように技術を磨く。

それはそれで
己の糧となり、
その経験がまた今後の現実で
生かされる時が来るかもしれない。

運転免許だって、
街で、自転車と電車の暮らしでは
必要なかったけど、
確かにここ大分へやってきて
10代で取っておいてよかった。

「これをしたらお金になる」
≒「これをしたら仕事になる」
として、
需要に応えること、
誰かの役に立つこと、
喜んでもらえること。

これらは自己の
「帰属欲求」「承認欲求」を
満たすためのモチベーションとして、
とても人生や社会に
貢献できるチカラになるものと
想います。

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そして、
それらをうまくこなせなかった僕・・・

費やす労力が足りなかったり、
センスが無かった。
・・・勘違いをしていた。

というのが、
俯瞰しきれない自己分析です。

というか、
音楽を「手段」として、
お金を稼いだり、
社会貢献を目標とするなら、
わざわざ「音楽」に限定しないで、
その時代に合った「手段」
使えばいいよな。

そんな風にして
有名になった「成功者」、
たくさんいるよね。

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「出来るからやる」でもなく、
「求められて、
それが出来るからやる」
といったような
「仕事」・・・
何らかの「事」に「仕える」という
意義とは別に、

「僕」が
この人生でやりたいことは
本当はどんなことなのか?

*************

このnoteを始めた頃は、
「音楽の素晴らしさを伝えよう」とか
「ウクレレの楽しさを伝えよう」
とか想って、
きっとそこには需要や、
お金を稼ぎやすい「ニーズ」があると
想像して、
そんな「ウクレレコンテンツ」として
noteを始め、ホームページも始めた。

全国を巡る「ライブ活動」も、
「指1本で弾けるウクレレワークショップ&ライブ」
と銘打ったら、
ちょっと活動が
キャッチーでポップに出来るようになった。

Facebookでつながる友達が
たくさんできた。

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良かったのか、悪かったのか、
「コロナ禍」が過ぎ去り、
世の中は、
こうも儚く、変わり得るものなのか・・・

と、
今、目の当たりにしている。

・・・この点は、
今の多くの人の
内心とも共鳴してることなんじゃないかな?

稼ぐためにやっていたお店は稼げなくなり、
「稼ぎ」を度外視して、
「やりたいから、在り続けさせたいから」
存続させようと努力し、
事業を運営されている方。

なんなんだ?
今の世の中は?
と思いません?

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そんなこの、
「終戦直後のような虚脱感」は、
内省、内観を深める時間に適していると
思われます。

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僕は今、
時世を読んで、合わせて
芸や技を鍛錬するモチベーションは
あまりありません。

みんなが求めている「何か」なんてのに、
気遣って、深読みして、センス鍛えても、
そんな「僕」にも「みんな」にも
期待できないから。

ほんと・・・
これ言っちゃぁ、終わってしまうかもだけど、
ウクレレ、覚えたい人が、もしいるんなら
教えます!

こんなこと言いつつも、
僕も嬉々としてお伝えしたいことは
たくさんあります。

弾いて歌ってみたい曲があったら
3コードとか、簡単にアレンジして
お伝えしますよ。

それはそれで、
学びになるし、楽しいんです。

依頼があれば、ですよ。

「需要」を期待せず、
興味本位で労力を費やせたのは、
12年くらい前に、
バッハやショパンをウクレレで弾きたくて、
一生懸命、楽譜を読んでアレンジした。

あの情熱は、もう無い。

あの時だって
ウクレレでこんなインストゥルメンタル
が弾けるようになれば、
プレイヤーとしてや、
CDコンテンツとしての
需要があるじゃないかな?
なんていう、
勘違いにしても、
期待がなければ出来ない作業でした。

*************

で、
ウクレレクラシックは
反響も少なく、活路を見出だせなかったけど
今後も
誰からの依頼もなく、
誰からも期待されていない時、
僕は「僕」で、
何をする?

うん。
音楽をする

「音楽」と言っても、
スタンスは人それぞれ。

「音」に魂込める人もいれば、
「詩」に魂込める人もいる。
それこそひとつの大切な「手段」として
人との繋がりに活用する人もいる。

僕は、やっぱり、
」だ。
そして、そこに付随してくる「音」なのだ。

*************

「詩」の手段として、
「音楽」を始めた。

「音」の奥深さなんて、
どうでもよかった。

「それがわかる人ってすげーな」
と想っていた。

なので、
「音」の深淵さに触れて、
理解とかも出来、
表現できるようになっている
今の僕は、
当時の自分から
「よくわかんねーけど、
すげーことがわかっている人」
ということになる。

すげーことが解っているアイデンティティで
生き進めた方が、
「仕事」も「権威」も
まとえそうと、勘違いしていたけど、
そんなに手に入らなかった。

*************

誰から求められていなくても
「詩」は必要だ。
僕の人生で
必ず要るものだ。

でも一応、
音楽家として詩を
歌わなくなった後のビジョンはある。

それは、
「詩」と同じ現実を生きているから
「詩」や「歌」というカタチを
用いなくてもいいや。

と想えたとき。

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そこに辿り着くためにも
今は歌いまくっていたい。

でも
「詩」を書くのはいいが、
「歌う」となると、
声を聴いてくれる人が
必要となってくる。

先ずは
「自身」に響かせることから始まるけど、
やっぱり「神楽」のように
神(彼の身)に届けるように、
大切な捧げものとして歌いたい。

誰かに届ける「想い」が
身(3)を以って、世(4)へ交えて
響き、拡がる。

これが
ひとつの人生の
「幸せ」なんじゃないかと、
今はそう設定し、
生きる活力を得ている。

つづく


うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。