叶えたい「夢」は詩の中に在る
「風の音楽家」のツアーが終わった。
かれこれ、
生活圏外へ出たのは
6/13以来。
千葉へ帰省して以来のライブだった。
夏は、
どこかへ行きたくてウズウズするもの。
という固定概念が崩れないけど、
外へ出る用事が無く、
逆にゲストを迎えたり、
子どもを川やプールへ連れて行く日々だった。
まぁ、街に住んでいる時に、
「どこか遠くへ行きたい」と思う
その「遠く」に住んでいるんだから、
どこへ行きたいのかわからないってのも
ある意味では夢が叶った現実にいる
ってことでもある。
ただ、やっぱり
ミュージシャンとして
誇りを持って仕事していたい。
という夢は
相変わらず埃かぶった日々でした。
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久しぶりの
演奏に次ぐ演奏の日々は・・・
とても疲れた。
がんばったなぁ〜
がんばれる環境って幸せ。
僕はずっと隠居暮らしのような
生活をしてたのかな?
来客を迎え、
彼らは僕を観る。
僕はそこまで彼ら一人ひとりを
把握するに至らず、
音楽に集中する。
そういうもんなんだろうけど、
笑顔や「ありがとう」に
挫けそうになる。
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ツアー初日の朝に書いたnoteが
ネガティヴにも受け止められかねない内容
だったようにも思えるが、
本当に、
二日目以降、
それなりに毎日、会場を埋め尽くす
観客の人たちが来てくれ、
届けたい、想いを込めた詩たちが
届き、響き合ってくれたみたいで
とても幸せでした。
↑、最終日の最後の曲。
最終日の、
僕の地元、大分耶馬溪での演奏は、
広い境内に30人以上の方が
山を登って来てくれて(車でね)。
普段、「音楽をやってるんです」って自己紹介しつつ、実際に音楽を奏でるわけではなく、イベントやらPTAの会議とか、草刈りとか、田植えとか。
そんなコミュニケーションしながら、
こそこそと廃校の学校に忍び込んで、
あまり誰も見ることのない
ライブ配信をして暮らしていました。
だから
やっぱり嬉しいな。
普段、接している人が来てくれたのは
2割くらい。
どちらにしても、
僕を「音楽家」として認知してくれている人達が
足を運んでくれた。
やっぱり、
立派なポスターって大事だよね・・。
僕には絶対こんな企画、制作、デザインは
無理だけどね(笑)。
関係者が
多いと「事」は大きく
シンボリックに出来るけど、
関係者が少なくて、
僕一人で企画運営する時も
自分の出来る事を
一生懸命やる。
太陽が牡羊座。月が山羊座の
宿命かね・・・。
出来る限り頑張って、
シンプルな情報をホームページとかで
デザインしつつ、
このnoteに
狙いの定まらない「想い」を綴ることで
なんとか発信しています。
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やっぱり、日々、音楽をして暮らしたい。
でも、それはやっぱり
かつての「大人」に言われた、
「夢を叶えられるのはほんのわずかな人達なのよ」
は、ある意味、本当だと想える。
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自分がすることは出来る。
ただ、
他者との関わりが必要なこと
となると、
自分の思い通りにはいかないものだ。
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社会的成功を掴むために
出来ることは全てやったのか?
と言われると、
出来ていない。というか、
ほとんど出来ていない。
やれていない。
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でも・・・
「夢」って何だっけ?
それはすでに
日々、うたっている。
だから、
日々、本当に歌っていたいだけなのだ。
人との出会いを求めたり、
セッションで音を楽しんだり、
「詩」ではなく「音」を楽しむ行為は
また、初期衝動から
経験を積んで付随して生まれた「夢」。
何も無くなっても(コロナ禍政策とかね)
他人との関わりに挫折しても
やり続けるモチベーションは
「詩」だ。
だから、
日々、歌う。ようにする。
誰も聴かないライブ配信で
誰かに届ける気持ちで歌う。
あらかじめ書き留めておいた詩が
僕に「夢」を伝えてくれる。
「夢」は詩の中にあって、
唄うと、その言葉が実り、現れてくれる。
現実として実現する。
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いろんな人に会った。
音楽を届けられた。
「仕事」が終わると、
いろんな人の人生が入ってきた。
引っ越して来た時、
色々お世話になった方の訃報が届いた。
地元の地鶏農家さんから
入院しているので、手伝いを頼まれた。
小学生の娘、息子の世界観に合わせて
遊んでやらなければならない。
草刈りに駆けつけ、
PTA会議に行き、お通夜に向かった。
僕の「詩」の届かないところで、
多くの人の人生が動いている。
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それでも
とりあえず、
noteを書きたかった。
ライブレポートにはならない。
感謝状や、リア充投稿にはならない。
ただ、気持ちの区切りを付けたかった。
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来週は、
千葉へ帰って、
おかげさまで2つ、ライブを
させてもらいます。
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最後に・・・。
久しぶりに、
いろいろお金が動く日々を送った。
お金が入ると、
気軽にお金を使いやすくなる。
お金が入らない時は、
なかなかお金を払う行為ができなくなる。
今、米不足のトレンドのおかげか、
僕の田んぼで採れた
無農薬、無肥料、
宇宙除草(田に這いつくばって素手で
水田を掻き回し除草する)、
天日干しのお米が
けっこう売れた。
3kg、2000円。
CDはもちろん売れなかった。
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「価値の交換」を
お金で表すような、教育を受けてきたけど、
その「価値」の指標を
「お金」で表すのって、
どうなんだろう?
売りやすいものを売って、
買いやすくなったものを買う。
そうして動く貨幣経済に
振り回されて生きるのは
どうかと想うようになった。
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だって、仮に、
僕にたくさんお金が入りやすい状況が
生まれたとして、
それまでの僕に価値がなかったのか?
そうならない君に
価値がないとでもいうのか?
それとも、
「ちゃんとお金になるように
基礎から勉強すれば
誰だってお金持ちになれるよ。
君に価値がないわけじゃない。
誰だって、
勉強すればお金持ちになれるんだよ」
こう言って慰めるのか?
要はやり方次第で
ちゃんとお金を受け取れるやり方は
ある。
身なりを正す。
TPOを把握する。
ターゲットを把握して、
価値を感じるデザインを考えることが
最優先。なのかな?
だけど、
それならば、
何をおいても先ずは何よりも
誰かの創った「お金の仕組み」を
学ぶことが、
最優先になるじゃないか!
何よりも。だよ!
「詩」よりも、
先ずは「お金」な世の中なんて
嫌だ!
(そもそも、
「そりゃ悪い事だろう」と思える事の方に
お金が流れるような事象もたくさんある。
そんなバカバカしい世の中なんだよ)
その詩は、
どんな場所で、どんな条件で
聴いてもらうことが適切か。
それはアーティストの能力として
必要なことかもしれないけど、
そんな「センス」に全く自信がない。
騒がしい場所で
囁いたって、誰も聴いてくれないし、
叫んだって、聴いてくれるわけもない。
わかってるけど、
そんな体当たりをしてきた結果、
自信を失っている僕がいます。
「自信を失った僕」を
そのまま一緒に連れて行きたい
「僕」がいます。
下手な生き様に
そのまま光を当てたい
「想い」があります。
*+*+*
心や「存在」の在処を
探すことばかりに興味がいって、
数字やデータに
なかなか興味を示せない人って
いるんだよ。
「好きにしろよ」って話では
あると思う。
好きに詩って、
お金ももらわなければいいじゃん。
でも、
色々な支払いの約束はある。
結局、どこかで暮らすお金を
稼がなければ。
それが出来てから詩えばいいじゃん・・・。
と、言われているような
現実が在る。
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世の中に「疑問符」があります。
きっとそれは
僕だけじゃない。
訳のわからないことを言っている。
と思う人も多いと思う。
だから、
このnoteだけに
書き留めておこうと思う。
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表紙の写真は、
門司港のアーケードに座っているところを
友人に撮られていた図。
この以前にチラッとウクレレ弾いていたんだけど、
この写真を撮られた時は
スマホで前回のnoteを書いていた。
ウクレレの方が絵になるけど、
これがスマホっていうのが、
自分を含めて、
なんか時代を感じます。
ウクレレ弾いてた方が
絵になるけど、
誰も、その絵を見てくれる人は
いないんだ。
昔からそうだけど、
今は、noteとか、SNSとか、
そっちにアウトプットしたら、
そっちの方が、
氣に留まる人が多い。
好いことか
悪いことか、
僕にはわからない。