尊い
母の実家に行くときは
たいてい高速バスだ。
安いことが1番の理由だけど
母の実家に近いところにバスが停まるし
座席が2人シートから1人シートに変わって
プライバシーも確保された高速バスは
快適な上に窓からたっぷり景色を見る時間があってなかなかオツなものだ。
ただ…
乗るまでが地獄…。
いつ降りても乗っても激混みの渋谷での乗り換え、エレベーターに乗るのに2往復も待たなければいけない池袋での降車、人ヒトひと。
普段ほとんど目にすることない若者と共に山手線に揺られ、シャンプーか香水かわからない強めのフローラル系の香りを嗅ぎ、ガラガラを引きつつ人の波がどっち向きか見極めながら辿り着く池袋までの道のりは遠く、たぶん1日分のビタミンCは全部使い果たしたと思われる。
それでもそれでも。
高速バスの自分の席に座って
しっかりトイレも利用し
おにぎりを食べながらバスが発車したとき
「あーーーー。
とうとう乗ったーーーー。」
と思うと同時に
窓から見える池袋の景色と
歩道を歩く若者やサラリーマン
大きな駅前の本屋
夕方の開店前まで閉まっている居酒屋
なんかが全部
ー尊いー
って思った。
尊いって言葉は私自体はほとんど使ったことがなく、使うことに恥ずかしさと言うか、大袈裟すぎるように感じていたのだけれど
この2年間
私と共に時間を過ごしてくれた人が
時折使う言葉だったので
頭の中に浮かぶようになった。
その人は私との距離が縮まり始めたころ
私の行動に「尊い」と言う表現を伝えてきた。
使うことはもちろん
言われたこともなかった
「尊い」と言う言葉に
私はなんとも言えない誇らしい気持ちになったし
自分がとても貴重な人間として扱われているような、価値の高い希少な存在なのだと言われているように感じて、今まで味わったことのない満ちた思いがした。
こんな言葉を使ってくれる人なのだから
これからもずっと共に生きていくのだろう
とずっと心のどこかに確信していたけれど
2年でそれは終了してしまった。
終わってからの半年は
まるで夢の中のように
現実を受け入れられなかった。
待っていればなんとかなるのではないか
私がこのままならまた戻れるのではないか
と生まれて初めての執着
動けない感じ
人生がどこに向かったらいいのかわからないような空っぽの気持ちを味わった。
「皆さん本日はご乗車ありがとうございます。」
新潟訛りの運転手さんのアナウンスが聞こえて
またあの人のことを思い出していたんだと気づいた。
一度も使ったことのなかった
「尊い」と言う言葉が私の中に浮かんで
夕暮れに向かう外の景色を見ながら乗っている高速バスの中で
日々の悩みや
迷いや不甲斐なさ
怒ったり傷ついたり
嘆いたり悲しんだりしていることが
スゥーーーっと遠くに行くような
後ろに流れていくような
そんな軽さを味わっていた。
そして高速バスの設備の中で
私が一番大好きな
フットレスト!
パタンと落として
靴を脱ぎ足を乗せ
ベロアの優しい肌触りを靴下越しに味わいながら
この感覚も
「尊い」
なーんて感じている。
この旅で前に行けるかはわからないけど
少なからず少し距離は進みそうだ。
そう思った。