20240118 俳優は跋扈する
「私たちの劇血(げきち)は、役者が縁側に舞い立った時に流れ出す」と書いたのは唐十郎さんだった。「私の書く芝居は、全て彼らのためだけのものです。彼らがいなければ、私はきっと書けなくなるに違いありません」と。
(※唐十郎『腰巻お仙』「灰かぐらの由来」1983年より)
▼「難しい哲学書を何冊も読んで途中でやめるような、プチインテリが書いた作品だな」というのは、こちらもまた現代の有名な演出家の方がはじめて唐さんの演劇を見たときの感想だという。言いたいことはなんとなくわかるような気がする。たしかに唐さんの場合、一つの作品の中にいくつもの物語や思想のモチーフが複層的に折り込まれている作品が多い。
▼稀代の劇作家として知られる唐さんだが、その彼が率いた当時の状況劇場は第一義に役者の集団だった。まず役者。それらの役者が跋扈するための口実としての戯曲の言葉、みたいな側面が少なからずあったのかもしれないと想像すると、先の演出家の方の感想もすこし頷ける。
▼状況劇場に集まった個性豊かすぎる怪優たちのポテンシャルを無限に引き出すために、一冊の本では、一本の戯曲ではおそらく到底足りなかったのではないか。そこに集まった人たちの個性をとにかく最高に炸裂させることだけを念頭においていろんな本から使えそうな言葉を集めて、物語を組み立てる。それが唐さんの脳味噌や記憶を通じて劇世界となって原稿用紙に書き付けられる。
▼古くは歌舞伎の狂言作者たちもまた、当代の名優たちに向かって当て書きをしたことで今にも残るバリエーション豊かな作品たちが生まれたのだという。演劇の可能性を広げるのは、いつの時代も俳優。そう信じてみたい。演出家でも劇作家でもなく、来るべき俳優の時代。
▼唐さんが当時の状況劇場の俳優さんたち一人ひとりにつけたあだ名(?)がおもしろい。「泣優」や「禿優」や「痴優」、「心中優」、果ては「遁優」という人までいる。
自分の劇団を振り返った時に彼らならどんなあだ名がいいだろうか、とちょっと考えてみるに
餡優
potential優
理優
凄優
小坊生肉優
とかなのだが、あんまりにもあんまりだな、と、我ながら思った。
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