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『マチネの終わりに』第九章(6)

 ドイツの人口を半減させたとも言われるその凄惨な戦争後に、バッハの音楽が生まれた必然性を、彼女は、バグダッド支局で、蒔野が二十代半ばで録音した《無伴奏チェロ組曲全集》を聴きつつ感じ取ったのだった。その事実が、震災後、絶えず見舞われる無力感に抗する力を、彼に与えてくれた。

 家族を守るという思いに変わりはなかった。しかし、ギタリストとしての蒔野は、そうして洋子の存在を再び強く意識しながら、震災後の一年を過ごしてゆくこととなった。

 洋子は、二〇一〇年末からジュネーヴで勤務し始めていた。最初の二カ月ほどは、人権監視活動という仕事にもNGOという組織にも不慣れなのに加えて、二週間毎のニューヨークとの行き来が、想像以上に体にこたえて、なかなか生活のペースを掴めなかった。寒い季節に新しいことを始めてしまったことも、疲労の要因となっていた。

 それでも、賑やかな摩天楼と静かな湖畔の町という組み合わせは、想像していた通り、悪くはなかった。

 慣れてくると、十代の頃のスイス人の友人と、二十年ぶりに再会するなど、生活にもゆとりが出てきた。昔通っていた学校まで足を延ばしてみたり、湖畔や旧市街を散歩したりしていると、自分の中にまだ残っていた十代の頃の感情が蘇って来るようだった。ジャン=ジャック・ルソーの生家の記念館にある小さな図書館で、静かに古い稀少本を読む時間に特別な喜びを感じた。

 仕事は、コソヴォから逃れてきたロマの難民の強制送還問題と、フランスでの中東難民の住居問題という、洋子自身にも関わりのあるテーマに取り組んでいたが、チュニジアで〈ジャスミン革命〉が起こり、それが北アフリカから中東にかけて、連鎖的な広がりを見せ始めると動向に注意を払った。

 自ら現場に足を運ぶというのではなく、挙がってきた情報を精査して政策提言を行うというのが基本的な仕事で、国連人権理事会の会期中は、ほぼ毎日出席して、各国の代表を前に演説をした。そのための原稿は、新聞記事とはまた違った文体を求められた。

 苦労は多かったが、洋子は新しい生活に、次第に充実感を見出していった。自信が戻ってきた分、ニューヨークでのケンとの生活にも一層の喜びがあった。


第九章・マチネの終わりに/6=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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