【日本アカデミー賞最多8部門で最優秀賞🎉】平野啓一郎『ある男』の序文を公開!
平野啓一郎の長篇を原作とする映画『ある男』が、第46回日本アカデミー賞で作品賞含む8部門で最優秀賞を受賞しました🎉
この快挙を記念して、原作小説の序文をnoteで無料公開します!
「人生のどこかで、全く別人として生き直す」という主題を描き切った傑作長篇。
読み進めるうちに、「ある男って、まさに自分のことじゃないか」と思い当たるかもしれません。
平野啓一郎『ある男』
この物語の主人公は、私がここしばらく、親しみを込めて「城戸さん」と呼んできた人物である。苗字に「さん」をつけただけなので、親しみも何も、一般的な呼び方だが、私の引っかかりは、すぐに理解してもらえると思う。
城戸さんに会ったのは、とある書店で催されたイヴェントの帰りだった。
私は、二時間半も喋り続けた興奮を少し醒ましてから帰宅したくて、たまたま見つけた一軒のバーに立ち寄った。そのカウンターで、独りで飲んでいたのが城戸さんだった。
マスターと彼との雑談を、私は聞くともなしに聞いていた。そのうち、何かの拍子につい笑ってしまい、話に加わることになった。
彼は自己紹介をしたが、その名前も経歴も、実はすべて嘘だった。しかし、私には疑う理由がないから、最初はその通りに受け取っていた。
黒縁の四角い眼鏡をかけていて、目を惹くようなハンサムではないが、薄暗いバーのカウンターが似合う、味わい深い面立ちだった。こういう顔に生まれていたなら、中年になって少々皺や白髪が増えてもモテるんじゃないかと思ったが、そう伝えると、彼は怪訝そうに、「いえ、全然、……」と首を傾げただけだった。
私のことは知らなかった様子で、恐縮されてこちらが恐縮した。よくあることである。
しかし、小説家という職業には甚く興味を持っていて、色々と根掘り葉掘り質問した挙げ句、急に感じ入ったような表情になって、「すみません。」と謝られた。私は何ごとかと眉を顰めたが、先ほど教えた名前は偽名で、本名は城戸章良というと明かした。そして、ここのマスターには内緒にしてほしいと断って、歳も私と同じ一九七五年生まれで、弁護士をしているのだと言った。
ろくでもない法学部生だった私は、法律の専門家を前にすると少々気後れするのだが、そんなことを告白されたお陰で、この時は卑屈にならなかった。というのも、城戸さんがそれまでに語っていた経歴は、人の憐憫を誘うような、ちょっと気の毒なものだったからである。
私は、どうしてそんな嘘を吐くのかと率直に尋ねた。悪趣味だと思ったからである。すると彼は、眉間を曇らせてしばらく言葉を探していたあとで、
「他人の傷を生きることで、自分自身を保っているんです。」
と半ば自嘲しつつ、何とも、もの寂しげに笑った。
「ミイラ採りがミイラになって。……嘘のお陰で、正直になれるっていう感覚、わかります? でも、勿論、こういう場所での束の間のことですよ。ほんのちょっとの時間です。僕は何だかんだで、僕という人間に愛着があるんです。―本当は直接、自分自身について考えたいんです。でも、具合が悪くなってしまうんです、そうすると。こればっかりはどうしようもなくて。他に出来ることは、全部やってます。多分、もう少し時間が経てば、そんな必要もなくなると思うんですが。―自分でも、こんなことになるとは思ってなかったんです。……」
私は、その思わせぶりにやや鼻白んだが、しかし、言っていること自体は興味深かった。それに、私は何となく、萌しかけていた彼に対する好感を捨てきれなかった。
城戸さんは、更にこう言った。
「でも、あなたには、これからは本当のことを言います。」
この最初の嘘を巡るやりとりを除けば、城戸さんは気さくで落ち着いた好人物だった。感じやすい繊細な心を持っていて、しかも言葉の端々からは、奥深い、複雑な性格が覗われた。
私は、彼と話をしているのが心地良かった。こちらの言うことが、よく通じ、相手の言っていることがまた、よくわかったからである。そういう人には、なかなか出会えないものではあるまいか。音楽好きというのも、二人の重要な接点だった。それで、偽名を使うのも、何かよほどの事情があるのだろうと忖度したのだった。
次に同じ曜日にその店を訪れた時にも、やはり城戸さんは独りでカウンターで飲んでいて、私は勧められて隣に座った。マスターの定位置からは遠い席で、以後、私たちは何度となく、この店のその席で顔を合わせ、夜更けまで語らい合う仲となった。
彼はいつもウォッカを飲んでいた。瘦身の割に酒が強く、本人は気持ちよく酔っていると言うが、その口調は穏やかで、何時間経っても変わることがなかった。
私たちは親しくなった。いい飲み友達が出来るというのは、中年になると、案外、珍しいことである。しかし、二人の関係は、ただこの店のカウンターに限られていて、どちらも連絡先を尋ねようとはしなかった。彼は恐らく遠慮していた。私はと言うと、正直なところ、まだ警戒もしていた。そして実は、もう長らく彼とは会っておらず、多分、二度と会うこともないだろう。彼が店を訪れなくなったことを―その「必要」がなくなったことを―私は良い意味に解釈している。
小説家は、意識的・無意識的を問わず、いつもどこかで小説のモデルとなるような人物を捜し求めている。ムルソーのような、ホリー・ゴライトリーのような人が、ある日突然、目の前に現れる僥倖を待ち望んでいるところがある。
モデルとして相応しいのは、その人物が、極めて例外的でありながら、人間の、或いは時代の一種の典型と思われる何かを備えている場合で、フィクションによって、彼または彼女は、象徴の次元にまで醇化されなければならない。
波瀾万丈の劇的な人生を歩んできた人の話を聞くと、これは小説になるかもしれないと思うし、中には「小説に書いてもいいですよ。」と微妙な言い回しで自薦する人もいる。
しかし、いざ、そうした派手な物語を真面目に考え出すと、私は尻込みしてしまう。多分、それが書ければ、私の本ももっと売れるだろうが。
私がモデルを発見するのは、寧ろ以前から知っている人たちの間である。
私も、関心のない人とは出来るだけ交際したくないので、長く続いている関係には、何かあるのである。そして、ふとした拍子に、突然、あの人こそが、捜し求めていた次の小説の主人公なのではと気がつき、呆気に取られるのだった。
蓋し、長篇小説の主人公というのは、それなりに長い時間、読者と共にあるので、そんな風にゆっくり時間をかけて理解が深まってゆく人の方が、相応しいのかもしれない。
城戸さんは、二度目に会った時から、偽名を使っていた理由を少しずつ語り始めたが、それはなかなか込み入った話だった。私は引き込まれ、なぜ彼がそれを私に話したかったのかを察し、腕組みしながらよく考え込んだ。「小説に書いてもいいですよ。」とこそ言わなかったが、恐らくはそれを意識していたと思う。
しかし、私が、本当に彼を小説のモデルにしようと思い立ったのは、別の場所で、偶然、彼をよく知っているという弁護士に会ったからだった。
私が、城戸さんはどんな人かと尋ねると、その弁護士は即座に、「立派な男ですよ。」と言った。
「あの人は、例えば、どんなタクシーの運転手に対しても、ものすごく優しいんですよ。道を知らなくても、感心するほど、気さくに丁寧に教えてあげるんです。」
私は笑ったが、しかし、このご時世に―しかも金持ちで!―それはなるほど、なかなか立派なことだろうと同意した。
その人から他に聴いた話は、色々と意外で、本人が決して口にしなかった胸を打つような事情もあり、私は、城戸さんという、どう見ても寂しそうな、孤独な、同い歳の中年男のことを、ようやく立体的に理解した。やや死語めいた表現だが、彼はやはり、人物なのだった。
小説を書くに当たっては、この人や関係者に改めて話を聞き、「守秘義務」から城戸さんが曖昧にしか語らなかったことを自ら取材し、想像を膨らませ、虚構化した。城戸さん本人は、職務上知り得たことをここまで人に話さなかっただろうが、小説としての必然に従った。
たくさんの、それもかなり特異な人物たちが登場するので、人によっては、どうしてこの脇役の方を主人公にしなかったのかと、疑問に思うかもしれない。
城戸さんは実際、ある男の人生にのめり込んでいくのだが、私自身は、彼の背中を追っている城戸さんにこそ見るべきものを感じていた。
ルネ・マグリットの絵で、姿見を見ている男に対して、鏡の中の彼も、背中を向けて同じ鏡の奥を見ているという《複製禁止》なる作品がある。この物語には、それと似たところがある。そして、読者は恐らく、その城戸さんにのめり込む作者の私の背中にこそ、本作の主題を見るだろう。
読者はまた恐らく、この序文のことが気になって、私がそもそも、バーで会っていたあの男は、本当に「城戸さん」なのだろうかとも疑問を抱くかもしれない。それは尤もだが、私自身はそうだと思っている。
当然に、彼のことから語り始めるべきであろうが、その前に里枝という女性について書いておきたい。彼女の経験した、酷く奇妙で、不憫な出来事が、この物語の発端だからである。(第1章に続く)
映画『ある男』は全国劇場で凱旋上映中(詳細はこちら)。
映画と小説、二つの『ある男』を合わせてお楽しみください!
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