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第九章 マチネの終わりに

『マチネの終わりに』タイアップCD発売(2016年10月19日)を記念して、各シーンを振り返りつつ、登場する収録曲をご紹介していきます。
今回は蒔野と洋子が再会をはたす第九章。ニューヨークでの蒔野の演奏のシーンと、アンコールで「幸福の硬貨」を演奏するシーンです。幸福の硬貨は今回のタイアップCDのために特別に作られたものです。ぜひ曲を聴きながら物語を読んでみてくださいね。
文章中のリンク先をクリックすると視聴が可能です。また、こちらのページからは、「幸福の硬貨」以外の楽曲の視聴ができます。

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 コンサートの当日は、よく晴れた、空の青さが、忙しなく家を出た人々の口を、一瞬、ぽかんと開けたままにさせるような朝だった。
 前夜は幸いよく眠れて、蒔野の体調も良かった。リハーサルは順調で、会場のスタッフらも、初めて聴く彼の演奏に感心し、品定めのような態度から、俄かに乗り気になっていった。蒔野自身も、手応えを感じていたが、アメリカでの公演経験がないだけに、聴衆の反応は予想がつかなかった。しばらく雑談して、例の調子で、ホテルのエレヴェーターに乗ったら、丁度入れ違いで、ジムで汗を流してきた男が、酷い臭いを残して降りてゆき、お陰で、下の階から乗ってきた美女に、自分の体臭と勘違いされて往生したという話を面白おかしくした。スタッフらは、彼の滑稽な話しぶりを少し意外そうに聴きながら、声を裏返して笑った。それで幾分、緊張が和らいだように感じた。
 楽屋で一人になると、蒔野は気になっていた爪の手入れをしながら楽譜を眺めた。本番までの時間の静寂を、そうしてどうにか耐えなければならなかった。

 蒔野のホテルから、実のところ、かなり近い場所に住んでいた洋子は、自宅で簡単なブランチを摂りながら、大きな窓からその日の快晴の空を見ていた。
 リチャードからケンを引き取るのは翌日の約束だった。
 しんと静まり返った部屋で化粧をしながら、彼女は鏡の中の自分を見つめた。蒔野に最後に会ったのは、もう五年前のことだった。何を着ていくべきか、散々迷って、結局、クロエの白いワンピースに、薄手のジャケットを羽織って出てきた。目立ちたくなかったので、席も一階の奥を選んでいたが、終演後に彼に会うかもしれないと思うと、もっと他の格好があった気がした。

 洋子がホールに到着した時には、既に客席の人の潮は満ちつつあった。談笑する表情には、蒔野の演奏への期待が窺われ、日本語の会話も、ちらほら聞こえてきた。洋子の両隣は、蒔野のことをあまりよく知らず、ただCDを気に入って来た地元の人間らしかった。
 ほどなく、開演時間となった。照明が落とされて、舞台が明るくなった。咳払いの残りが、静まりゆく会場に、最後に一つ二つ響いて止んだ。
 舞台袖のドアが開くと、洋子の心拍は急に大きくなった。拍手が起こった。一瞬後に、蒔野が、黒いシャツに黒いズボンという格好で姿を現した。俯き加減で中央まで進み出て、客席を一瞥してから椅子に腰を下ろした。洋子は固唾を吞んで、足台を確認しながらギターを構える彼を見守った。蒔野がいる。過去の記憶の中ではなく、駆け寄って行けるほどのこんなに近い距離に。──そのことの現実感を、彼女はしばらく捉えそこねていた。
 プログラムの第一部は、ブローウェルの三部構成の名曲《黒いデカメロン》に始まり、ヴィラ=ロボス、武満徹、ロドリーゴと続いて、再びブローウェルのソナタで締め括られる構成だった。《黒いデカメロン》の一曲目〈戦士のハープ〉が、緊迫した、ほとんど魔術的なほどに広大な二オクターヴの跳躍で始まると、会場はもう、つい今し方までとは別の空間になっていた。反復的な旋律が次第に空気を濃くしてゆく中で、ギターの長音が、会場の最も遠いところにまで何にも遮られることなく、真っ直ぐに伸びてゆく。この曲をよく知っている者、知らない者が、それぞれに、その縹渺たる響きに驚いた。
 それがまるで一つの予告であったかのように、蒔野はその後、一曲ごとに、とても同じ一本のギターで弾いているとは思えないほどの多彩な表現で、次々と、新鮮な音楽的風景を現出させていった。
 かつての一分の隙もない、あまりに完璧に律せられた世界とも違って、今はむしろ、音楽そのものに少し自由に踊らせて、それを見守りつつ、勘所で一気に高みへと導くような手並みの鮮やかさがあった。それもまた、長い〝スランプ〟の果てに、彼に生じた一つの変化だった。
 聴衆の感嘆は、楽曲が終わる度に拍手に熱を加えていった。
 最後のブローウェルのソナタの躍動的な第三楽章を、興奮と共に聴き終えると、まだ第一部の終わりだというのに、思わず立ち上がって、「ブラヴォー!」と叫んだ者までいた。
 蒔野自身、その反応に少し驚いたのか、椅子の前に進み出ると、そのまま数秒間、棒立ちになった。そして、ようやく我に返ったように一礼し、舞台袖に下がっていった。

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 第一部とは違った、存在の底から満たされてゆくような繊細な法悦があった。蒔野を凝視する聴衆の表情には、幾らか苦しげな明るさが萌していた。体を揺すって拍子を取る代わりに、何か本人にしか知り得ない秘密のために、音にならない言葉を口にしている者もあった。
 最後のジーグを弾き終えると、蒔野は、スタンディング・オベーションでその演奏を讃えられた。洋子ももちろん立ち上がって、彼の姿を目に焼きつけながら手を叩いた。
 蒔野は、感極まった面持ちで会場の全体を見渡し、礼をした。一度舞台袖に下がって、また戻ってくると、アンコールに《ヴィジョンズ》と《この素晴らしき世界》を演奏した。ようやく少し安堵したような面持ちだった。すっかり満足した聴衆も、一転してリラックスした、ほとんど歌い出さんばかりの様子で、洋子の隣の夫婦は、実際に小声で歌詞を口ずさんでいた。
 二度目のアンコールに応えて、再び舞台に登場した蒔野は、この日初めてマイクを手にして英語で話を始めた。感謝の気持ちを伝えたあと、
「ここの会場は初めてなんですが、音もとても素晴らしくて、演奏していて、本当に良い気分でした。近くにセントラル・パークもあるし、……今日は良いお天気ですから、あとであの池の辺りでも散歩しようと思ってます。」
 と続けた。聴衆は、そのやや唐突な〝このあとの予定〟に、微笑みながら拍手を送った。洋子は、彼の表情を見つめていた。
 蒔野はそして、一呼吸置いてから、最後に視線を一階席の奥へと向けて、こう言った。
「それでは、今日のこのマチネの終わりに、みなさんのためにもう一曲、特別な曲を演奏します。(And now, at the end of the matinee, I will play one more melody──a very special melody──for you.)」
 洋子は、その時になって、微かに笑みを湛えていた頰を震わせ、息を吞んだ。蒔野がこちらを見ていた。そして、「みなさんのためにfor you」という言葉を、本当は、ただ「あなたのためにfor you」と言っているのだと伝えようとするかのように、微かに顎を引き、椅子に座った。
 ギターに手を掛けて、数秒間、じっとしていた。それから彼は、イェルコ・ソリッチの有名な映画のテーマ曲である《幸福の硬貨》を弾き始めた。その冒頭のアルペジオを聴いた瞬間、洋子の感情は、抑える術もなく涙と共に溢れ出した。……

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★「第9章:マチネの終わりに」で紹介した曲の視聴
11.黒いデカメロン より I.戦士のハープ (ブローウェル)
https://mz-edge.stream.co.jp/v/t4u96pgb

12.黒いデカメロン より III.恋する乙女のバラード (ブローウェル)
https://mz-edge.stream.co.jp/v/yn6884a3

13.ギター・ソナタ より III.パスキーニによるトッカータ (ブローウェル)
https://mz-edge.stream.co.jp/v/we14hnw4

★タイアップCDの先行予約はこちらから(2016/10/19発売予定)
https://storeshirano.stores.jp/

特典:新聞連載の挿絵を描いてくださった石井正信氏による「しおり」。毎日新聞での挿絵は、単行本に生かされませんでしたが、CDのブックレットにはふんだんに盛り込まれています。平野と福田氏の対談もぜひご覧ください。

★『マチネの終わりに』単行本ご購入はこちらからhttps://www.amazon.co.jp/dp/4620108197

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