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新書『「カッコいい」とは何か』|第4章「カッコ悪い」ことの不安|3「恰好が良い」とは表面的なことなのか?

一体、表面的な「カッコよさ」は、飽くまで内実とは別なのか? それとも、両者は基本的に合致することを目指すものなのだろうか?そして、私たちが「カッコいい」人間になるとするなら、どちらの変化が先なのだろうか?――。平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売に先駆けて、序章、終章、そして平野が最も重要と位置付ける第3章、4章を限定公開。 「カッコいい」を考えることは、「いかに生きるべきか」を考えることだ。
※平野啓一郎が序章で述べる通りの順で配信させていただきます。「全体のまとめである第10章にまずは目を通し、本書の肝となる第3章、第4章を理解してもらえれば、議論の見通しが良くなるだろう。」

3.「恰好が良い」とは表面的なことなのか?

普通以下のダサい人間
 ここで、改めて考えるべきは、一体、「恰好が良い」とは表面的なことなのか、それとも内実と結びついたことなのか、という問題である。

 外観というのは、勿論、表面的なことである。

 渡米した当初、衣冠帯剣の出で立ちだった岩倉具視が、洋式の大礼服をまとったことで笑われることもなくなり、評判を上げた、という例に見るように、なるほど服装とは、当人の本質とは関係なく、表層的で、可変的である。岩倉が人間的に急に立派になったわけではない。

 しかし、表層的であるにも拘らず、岩倉使節団の参加者たちが、不平等条約改正の障害になる、と懸念したほどに、「カッコ悪い」ことは、当人を侮りの対象とさせ、対人関係を困難にさせる。「カッコいい」人間と「カッコ悪い」人間との間には、上下関係が発生し、ダサい恰好をしている人間は、本質的にダサい人間だと判断されてしまう。

「カッコ悪い」人間は、自分たちの普通という感覚から悪い意味で逸脱している。普通以下である。それは、趣味が洗練されていないからか、文明が遅れているからか、そもそも共有可能な感覚を持ち合わせていないからか。……

 欧米の普通の基準に達していないという自意識は、使節団の各人に、疎外感と恥の意識を抱かせている。日本も、歴史的には常に中国大陸や朝鮮半島からの渡来人と交流し、あるいは江戸時代には出島でオランダ人と貿易をするなど、外国人と接してきていたはずだが、そんなふうに、自分たちのことを「カッコ悪い」と感じ、羞恥心を覚えた、ということはなかった。

 勿論、こんな差別的な認識は、今日では厳しい批判に曝されようが、常に欧米の近代を追い求めていた明治以降の日本人は、こうした自意識を深く抱え込むことになる。


「カッコいい」の影響圏
 もう一点、日本の洋式大礼服がフランスのそれを手本にした、という点も重要である。

 なぜならば、ファッションに於ける「カッコいい」には、発信源があり、そこから広がってゆくものということが認識されたからである。

 ナポレオンの服制が、ヨーロッパ全体に影響を及ぼしたように、日本政府もそれを導入した。そして、その影響がまた、時間をかけて一般大衆にまで広がってゆく。

 これは、二〇世紀にモードが世界的なファッションのトレンドを牽引してゆくことと、構造的には同じである。違いと言えば、それが政府主導なのか、企業主導なのか、それとも「カッコいい」人主導なのか、メディアがどのように関与するのか、という点である。

 そして、その「カッコいい」の影響圏からハズレてしまっている人は、「カッコ悪い」のである。なぜなら、その「カッコいい」という普通の基準以下(以外?)だからである。

「カッコいい」の中心からその影響を受けた人は、今度は自らがその「カッコよさ」を分有し、憧れによる同化・模倣願望の対象となる。あるいは、羞恥心から同調願望の対象となる。それが社会的に普通となれば、そもそも外国になど行ったことがなく、別に着物を恥だと思ったことがなかった人まで、「野蛮」だという自意識を抱くようになるのである。

 ただし、明治時代の「カッコいい」が、進歩史観に基づいた単線的な序列であったのに対して、モードはそもそもコレクションの場所も、パリ、ミラノ、ロンドン、ニューヨーク、……と各地に複数あり、デザイナーも数多くいて、しかも、その変化のテンポは六ヵ月毎であり、一直線に良くなってゆくのかどうかはわからない、変化それ自体が目的化した世界である。そして、新しいモードが普通になると、昨年まで「カッコよかった」服は、ダサい化される。「カッコいい」には時間性があり、過去・現在・未来の中で、その価値を相対的に変化させてゆく。

 とすると、やはり、「カッコいい」は、本質的ではない、表層的な価値ではあるまいか?


外観と内実との合致
 ところが、同じ服でも着こなしとなると、そこに歴然と「カッコいい」と「カッコ悪い」の差があらわれてしまう。

 岩倉は、たとえアメリカでは珍妙な服装だと笑われたとしても、武家の目から見たその衣冠帯剣の大礼服姿は、流石と言う外なく「恰好が良い」のである。

 それは、彼が公家だからであり、そのこと自体は、模して及ばぬ本質的な特質ではあるまいか?

 なぜ、使節団員たちは、洋服を着ていても、アメリカで笑われてしまったのか?

それは、その洋服をうまく着こなせなかったからである。そして、木戸に言わせれば、着こなせるようになるためには、何よりも本人自体が変化せねばならず、本人がその外観と合致しなければならないのである。

 服装は飽くまで外的な要素だが、それは本質たる私たち自身をより「カッコよく」見せてくれる。

 メイクもそうである。

 そんなことは当たり前だと思われるかもしれないが、必ずしもそうではない。

 例えば、写真家ハンス・シルヴェスターが撮影したエチオピアのスルマ族やムルシ族のメイクは、目鼻立ちといったそもそもの作りとは無関係に、顔の全体を真っ白に塗ったり、そこに水玉模様を描いたりしている。メイクによって、素顔が増強され、目がより大きく見えたり、鼻が高く見えたりする、といったことにはまったく無関心である。

ハンス・シルヴェスターの写した部族

 この人は、美形なのだと思わせる効果はない。しかし、むしろそのメイクに止まらないボディ・ペインティングや衣装は、当人を本質的に変身させているように見える。

 一体、表面的な「カッコよさ」は、飽くまで内実とは別なのか? それとも、両者は基本的に合致することを目指すものなのだろうか?

 そして、私たちが「カッコいい」人間になるとするなら、どちらの変化が先なのだろうか?

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