見出し画像

給湯室

駐車場について車を降りたら、目の前に同僚のSがいた。

「おはようございます」

わたしが来るのを待ってたんじゃないかと思った。
Sは頭を下げながら近づいてきて
「あの、先日のあれ、わたし書類書き間違えちゃって。ごめんなさい」
先日の〈あれ〉というのは、先週末の出来事を言ってるに違いなかった。
「あ、全然!気にしないでよ。わたしも帰る頃には忘れちゃってたんだから」
本当にその程度の、大したことのない間違いだった。
消しゴムで消して書き直せばなんの問題もない、その程度の間違い。
「本当に余計なことをしたと思いました。」
「ううん、書き直しちゃえば済む話だから。大丈夫だよ」
「本当にごめんなさい」
Sは何度も謝ると、逃げるように先に行ってしまった。

Sは同期入社でもう6年の付き合いになる。
黒髪でストレートのショートへア。目鼻立ちもはっきりしていて美人なのだけれど、痩せているのにふくらはぎだけは妙にパンと張っていて、猫背で早歩き。あまり色気があるタイプとは言えなかった。わたしと同じ年だというのになぜかSは敬語を崩したことがない。仲が悪いわけでもなく時には世間話もする。でもSは常に一歩も二歩も後ろに引いているように感じた。手を前で重ねて立つのが癖だからか、なぜかいつも申し訳なさそうにも見えた。

朝のことがあってからSが気になり、デスクに立てた書類の間から向こうの島にいるSの後ろ姿ををなんとなくチラチラ見るのだけれど、Sはパソコンに向かって普段通り仕事をしているだけだった。

昼になりお茶を入れようと給湯室に行くと、Sがいたのでなんとなく中に入るのがためらわれて、いったんそのまま素通りした。Sはこちらに背を向けて水切りカゴのところをカチャカチャと触っていた。お茶でも入れるのかと思ってそっと覗くと、Sが手にしていたのは、洗った後水切りカゴにそのままにしていたわたしのマグカップだった。するとSはわたしのマグカップを、排水口のゴミ受けにぐりぐりと押し付けた。口のところがゴミ受けにこすれてじゃりじゃりと音がする。後ろ姿で肩に力が入っているのがわかる。あっという間の出来事だった。Sは手際良くそこにある台ふきんでマグカップの口を拭くと、何事もなかったかのように水切りかごにもう一度伏せて置いた。

すぐに自分のデスクに戻ったのだけれど、何も手につかずそのまま座っているだけだった。しばらくすると、給湯室から戻ってきたSが自分の席で弁当箱を取り出して食べ始めるのが見えた。その姿はさっきまでと同じ、いつも通りのSだった。

わたしは引き出しの一番下からカップラーメンを取り出した。いくらか買い置きしていて、余裕がない日はここにストックしているインスタントを食べたりする。給湯室でお湯を入れ、デスクでカップラーメンを思いっきりすすった。本当に嫌なもの、見ちゃった。

わたしはカップに残った残り汁を給湯室に捨てに行った。
ゴミ受けには、すでに他の社員が流した残飯がいくらか溜まっていた。わたしが汁を流すと、ネギと少量の麺が受け皿に残った。

そのあと歯磨きをした。
気分を変えようと思って、歯磨き粉をたっぷりつけて泡だたせて磨いた。口の中のものと喉に溜まった全てのものを排水口に向かって吐き出した。

そして水を流した。
気分の悪さも含めてスッキリ水に流してしまいたかった。それなのに残飯と自分が吐いたものが邪魔をして水がなかなか流れない。ゴミ受けが排水口の蓋になって、なにもかもが溶け込んだ水がシンクいっぱいになった。だからゴミ受けを外した。ゴミ受けを外すと溜まった水が少しずつ流れ始めた。しばらく掃除していないのかそもそも流れが悪かったみたいだ。濁った水が流れ切らずに残った上、悪臭もする。

ついでにさっきのマグカップを洗おうと思った。
Sがシンクのゴミ受けにぐりぐりとこすりつけていた、わたしのマグカップ。それでわたしは水切りかごに手を伸ばしたのだけれど、手が滑ってマグカップがシンクの中に転がって、排水口の中に落ちてしまった。そこでやっと気づいたのだけど、わたしは過って自分のではなくSのマグカップを手に取っていたみたいで。

Sのマグカップは口を下にして、汚水に浸かっていた。

あら。

わたしは逆さまになって身動きの取れないSのマグカップを、クルクルクル、と汚水の中で回しておいた。


いいなと思ったら応援しよう!