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洗面台の女 

「洗面台のところに髪の短い女の人がいる」
次女がそんなことを言うようになってからもう二週間になる。
その“女の人”というのはいつも見えるわけではなく
ふとした時とか、偶然通りかかった時に目の端に、とかその程度のことのようだった。
小学1年生の子供が言うことである。
鏡の前の棚に置いてあるものがそう見えるとか
壁にかけたタオルがそう見えるとか
そうしたものの可能性は大いにあった。
とにかく次女の心の中にある、ちょっとした
「不安感」とか「恐怖心」みたいなものが
そのように見せるのだろうと
わたしたち夫婦は結論づけたのだった。

「耳に赤いピアスをしていたの」
今日も次女が風呂上がりにわたしの元に来て報告した。また女を見たらしい。
“赤いピアス”は日によって
“赤いペディキュア”や“赤い指輪”になったりした。
「そっか、大丈夫よ」
「じゃあ、いっしょに見に行ってみよっか」
そう言って娘と洗面台周辺を確認する。
もちろん女なんていやしないのだ。

玄関の鍵が開く音がして
ちょうど夫が帰ってきた。
手に白い箱を持っていた。
「Aさんのおすすめのお店でさ」
そう言うと夫は嬉しそうに、ケーキの箱を開けた。

夫婦の会話の中に彼女の名前が頻繁に出るようになったのは、夫が昨年の春に転職して新しい職場に勤め始めてからだった。
「彼女はシングルマザーだけれど明るく、営業のセンスもある。」
そう語る夫の言葉の端々に、思い入れの強さみたいなものを感じることがあった。
それは営業という仕事に対してなのか
はたまた頑張り屋の彼女に対してなのか
わたしにはどっちとも判別はつかなかった。

一通り家事を終えて冷蔵庫を開けると
目の前に苺のショートケーキがあった。
純白のクリームの上の真っ赤な苺がこっちを向いていた。
なぜだろうか。
よくない考えが一瞬わたしの頭をよぎり
すぐさま否定した。
まさか。考えすぎだ。
こうして毎日仕事をしてわたしたちを養ってくれているし、いいパパではないか。
現に夫は仕事が終われば家にまっすぐ帰ってくるし、毎週末は家族サービスも欠かさないのだから。

リビングでケーキを食べていると、先月の歓送会で撮ったという写真を夫から渡された。
夫の隣に座る若い女性がAさんだという。
髪の短い、溌剌とした感じの女性で耳に小さな赤いピアスをしていた。

わたしは途端に不安になった。



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