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弱みを伝え合えるまちに(2020年2月29日「夕刊デイリー」掲載記事)

新聞やインターネットで社会的にネガティブだとされていることを公表することについて、どう思いますか。たとえば病気や障がい、LGBT(性的少数者)など社会的マイノリティであることを名乗るを、身近な人が公表したらどう思いますか。

「そういうことを名乗るのはリスクだ」「身近な人がそうしようとしたら止める」という人がまだまだほとんどではないでしょうか。

私の答えは明確です。公表するかどうかは本人が決めたらいい。そして、身近な人がそれをしようとするとき、心配だったら具体的にどういうリスクが想定されるかを本人が理解しているのかを考えます。

理解していると思われる場合は、たとえ心配であっても任せ、そうでないなら具体的なリスクについて話し合う。最終的な決定は本人に任せる。これが私の答えです。

本人が公表しようと思うとき、そこには必ず理由があります。公表するには勇気と、それを持って行うということには信念が必要です。たとえその表現の仕方がまだ拙かったとしても、一歩を踏み出すことは必要だからそうするのです。

それを行って周囲から反発があったとしたなら、その人は傷つくでしょう。その人が感じている反発の正体こそが社会の偏見だと私は思います。そこに解決、解消に向けてアプローチしていくべき課題があるということです。

その人が身近な人や社会に向けて発したいという言葉が溢れるとき、その人を尊重してあげたいと私は思います。言葉が溢れてくるのには、それを人に伝えようとするのには意味があるのです。できるなら、どうしてその人は言いたいのだろう、と想像してみてください。

病気や障がい、LGBTなど、そういう区分につけられた名称は、本来それがどういうものなのか分かりやすく説明するためについているものだと思います。

しかし、少数派であるためにそれを名乗ることに抵抗があるのなら、その人たちは本来背負わないでいいものまで背負わされています。それが偏見です。

病気だったり、障がいだったり、向き合うことはそれ自体大変なことです。エネルギーを要します。ただでさえそうなのに、それに加えて「それを公表するな」と言われてしまったら二重の苦しみを背負うことになります。

公表してもいいではないですか。公表して特性を知り、理解し合ったり、すぐに理解できなくても「そういうものなんだ」と相手を尊重したりすることで、その人は社会で生きるのが楽で楽しくなるのではないでしょうか。

弱みをどんどん公表したらいいと私は思います。それを言って少しでも楽になるなら言えばいい。楽になるから言おう。

私は延岡市をそういう発想が当たり前のように息づくまちにしていきたいと考えています。

上記は2020年2月29日に宮崎県延岡市の「夕刊デイリー」内「デイリーサロン」にご掲載いただいた記事です。転載許可をいただいています。

以下、追記。(2020年5月8日)


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