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うつの日の覚書

判断力が低下している。体も頭も思うように動かなくて、普段なら簡単に判断して行動に移せる小さなことが難しい。一つ判断するのにものすごく時間とエネルギーを要してしまう。

子どもを保育園に連れていきたいけれど、自分ではできないから送迎を誰に頼もうかとか、出勤をどうしようかとか、そういう小さいけれど判断して行動しないと前に進まない、そのままにしておくと他の人に迷惑をかけてしまう恐れのある大事なこと。

今日は仕事が休み。子どもを送り出し、病院に行こうかとも考えたけど、行きたくない気持ちを無視できなかった。自分では、数日間でも入院して休息する必要があるくらい状態が悪いと認識している。だけど行きたくないのである。

こういうことを繰り返して生きてきた。その度に、病院ではない、ゆっくり休養できる施設があったならいいとかねがね思ってきた。ただゆっくり休む場所。衣食住が満たされ、静かで平穏な場所。

だって私は今回たぶん「通常社会」で生きることに疲れてしまっただけ、もっと正確に言うとこれまで長い間「通常社会」で受けてきた傷が些細なことをきっかけに疼いてしまって立ち止まってしまっただけ。(私がわざわざこう書くのは、私の愛する周りの人たちのせいじゃないことをはっきり書いておきたいから。)

私が私でいることは保っていられるから、「病院」にいる必要はないのだ。現に私はこうして考えることができているでしょう?一人の尊厳のある人間でしょう?「病院」を”利用”することもできるけれど、今はしたくないのだ。

私がイメージするのは、「穂高養生園」のようなリトリート施設に近いかもしれない。そこに行ったことはないけれど。ただ、そういうところは高いのだ。お金のあるなしに関わらず、休みたい人が休めたならいい。お金を払える人からもらって、そうじゃない人からはもらわない、そういう場所。

そこでは、「実は私はこうこうで。」と通常社会ではタブーとされていることを言ったとしても、「そうなんですね。」と受け入れてもらえる。それ以上は何も言われない。「そんなこと人に言わない方がいいですよ。」だなんて間違っても言われたりしない場所。

たとえば障害など自分が持つ性質のせいで、望まない単純作業が与えられるかもしれないことに怯えなくてよくて、心から望んだ仕事ではないのに「ないよりありがたい。」と消極的な感謝をしなくても済むところ。

どんな人でも心からやりたいことができる、それが何だったか思い出すことのできる場所。その人の生命を輝かせることができる、心からの喜びがほとばしるような場所。(このイメージは「しょうぶ学園」に近い。)そのためにまずは傷ついて疲れた心と体を休めてもう一度生まれ直せるような場所。

振り返ると、私はずっと(多数派に生きやすくできている)「社会」の”中”にどうにか工夫して自分を置こうと努めてきたように思う。そしてできるならそこに変化を起こしたいと望んできた。それは尊いことだと思う。大したことはできていないけれど。だけどもう「社会」に合わせなくていいのではないか。そういうときがあったとしてもいいのではないか。

変わるかも分からない「社会」に働きかけるのもいいけれど、それだったらいっそ私の「世界」をつくっていけばいいんじゃないか。それはきっと結果的に、私と共通した痛みや苦しみ、悲しみを抱えて生きる人たちにとって心から歓迎できる「社会」をつくることに繋がるのではないか。

悲しむことを脅かされたくない。悲しみをなかったことにしなくていい。無理に乗り越えることを自分に課さなくていい。

無理をして「社会」の中に仕事を見つけることだけが働くことだろうか。もちろんそのことの尊さは否定しない。しかしたとえそれができなかったとしても、それでもやっぱり私は尊い一人の人間なのではないだろうか。

依って立つところが脆弱な私にも、できることがある。そんな私だから、見、感じられることがある。そんな私だから、できることがきっとある。

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