「ママ、て」

 「子どもが大きくなって親離れしだすと親は寂しさを感じる」とよく耳にするが、その気持ちが分かりかけてきた今日この頃である。地域の方々や公的機関に助けてもらいながら必死で駆け抜けているうちに、いつの間にかお子は5才になった。

 もうお着替えは自分でできるし、夜のおむつも取れた。保育所から帰ってきたら嫌々ながらも翌日の準備をすることができる。言葉も流ちょうになり、「だってね、~だよ」と接続詞を使って文章を話すようになった。

 ある日、保育所へ送っていく車内で、お子が後部座席から「ママ、て」と手を伸ばしてきた。考え事をしていた私はついうわの空で後部座席にちょいと手だけ伸ばす。一瞬だけお子と私の手が触れた。

 ちょうど赤信号に差しかかる。車を停め、すぐに後部座席から引っ込めた手をスマホへと伸ばす。瞬間、後悔と罪悪感が追いかけてきた。慌てて、再び無言で後部座席へと手を伸ばす。今度は少し長めに。案の定お子は握り返してきた。「ママ、ずっとにぎってて」

 「運転中だからずっとは握れないよ」と返しつつ、こうして甘えてくるのもあと数年のことだと残りの時間を強く意識した。

 こういうことは他にもある。たとえば自宅でお子がテレビを見ているとき、別室で私が家事やパソコン作業をしていると、お子はちょくちょく私を呼びに来る。一人で見るのは寂しくなって、「ママもそれ(私が作業中のもの)もってこっちきて」と言うのだ。

 しかし私はすぐに作業を中断してお子のもとへ行くことがなかなかできない。自分を擁護すると、大人でも子どもでも、夢中になっていることをさえぎられるのは苦手なはずだ。ついこの間は「ちょっと待って」という私と「はやくきて」というお子で小さな言い争いになってしまった。結果、お子が諦めてテレビの部屋に戻った。

 これをお読みの方はあきれ返っているかもしれない。しかし恥ずかしいことに、これはよくあることなのだ。毎回すぐに反省する。そしてお子のもとへ行ってぎゅっと抱きしめる。お子にとっては「さっき」来てほしかったのに。

 保育所を利用しているのだから、せめてお子が自宅にいるときくらいは、お子の要望に応えてあげたい。なぜなら私はお子に「ぼくはママから愛されて育った」と自信を持って生きて行ってほしいと願っているからだ。

 何気ない日常は、もう戻らぬ大切な場面の連続だ。無限にあるようで限られた一緒にいる時間を大切に過ごしたい。

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