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【感想】よくわからないものを推察すること-『Less than more 1』

昨日私は、非常に言語化に困る作品を観劇?した。
最近見た映画の感想すらうまく言語化できてない私にとっては、ダブルパンチを喰らっているのも同然の状況であるが、本作については忘れぬうちに可能な限りの言語化を試みてみたいと思う。

貴重な場面の観測者・記録者であるために。

※以下昨日書いた文なので、時系列がおかしい部分がありますがご容赦ください。

以下、劇団せきあおい第4回企画『Less than more 1』のネタバレを含みます
のでご注意ください。






上演前・中の感想

会場に到着すると、今回の公演の意図やテクストが書かれたA4の紙(2枚)いたただいた。正直、今日は労働後であったせいかいまいち内容が頭に入ってこなかった。折角用意していただいたのに申し訳ない。
また、到着したのがギリギリであったため、非常に駆け足でいただいた紙を読む羽目になった。

消灯され、外の灯りのみが光源となる中、上演が始まった。上演が始まったと言っても、明確な開始の合図があったわけではない。消灯後、SE(物音、ミュージックという説もある)が気がつけば建物の外から役者が非常にゆっくりと入室してくる。
気がつけばそこにはただならぬ緊張感があり、コンテンポラリーダンスや能を思わせるような動きの役者に注目が集まる。
役者は足音ひとつ立てないため、観客は音を立てること≒悪といったような空気感が会場に立ち込める。このような空気感を形成できる点は今回の小さく、観客席との境界が曖昧な環境の利点なのかもしれないと思った。

その後も役者はコンテンポラリーダンスや能を思わせるような動きを続ける。しかしどうしたものか、頭がその場の光景の理解を拒否している。やはり労働後の疲れ切った頭で せきあおい氏の作品を鑑賞しようなどという甘い考えが間違っていたらしい。

さて、今回の舞台は他人の認識できない部分(自分の主観とそうでない部分の曖昧なところ)の表現を試みてたという。
※というか、そう理解している。あってるかな?

どこかで“人間が月を観ていない時に月は存在しない”的な言葉を聞いたことがある。自分が見ていない範囲では何が起こっていたとしても、それを否定することは難しい。
そのようなことを思い出した私は、この舞台を通じて「こういう営みもあるよなぁ」という心持ちで見ることに決めた。

そうすると役者の動きやその場が形成するただならぬ緊張感の中、少しだけ気楽に営みの観測をすることができた。そうじゃないとその場にいられなくなりそうだった。

やがて役者は能のような動きで手を広げながら舞台上の机とごみ箱の間の僅かな隙間を移動した。
忘れそうになるが、これは せき氏のダイエットを元にした演劇である。私は知っている。6月上旬の時点で せき氏はダイエットをしているとは言い難い体型をしていたということを。それを踏まえると、手を広げる動きはダイエットに失敗した せき氏の暗喩なのかなぁと思考を巡らせる。(思考を巡らせないと自我を保てない)

その後、役者は一度死角へと姿を消し、水の音のSEが流れ始める。これが不規則な水音であるため、神秘的かつ自然への畏怖のようなものを抱かせる。

やがて再び俳優が姿を見せ、これまた能のような動きでゴミ箱に水を注いでいく。
私は知っている。6月上旬の時点で せき氏はダイエットをしているとは言い難い体型をしていたということを。そして、もらったA4の紙にゴミ袋をそのまま捨てずに放置してしまうことがある旨記載があったことを。
そう考えると、注がれている水は せき氏に溜め込まれている脂肪を暗喩しているのではないかと私は結論付けた。
そのようなポップな考察を脳内で繰り広げていたものの、その場の空気感はやはり大変な緊張感であった。
やがて役者は舞台(建物)から出ていき、本作は幕を下ろす。

自我が保てず、考察を試みるも、考察が目の前の光景から目を背ける逃げの行為になってしまうような本作は、せき氏の作品の中でも最も難解(もしくは意地悪で悪趣味)な作品であるように私は感じた。


アフタートーク後・思考をめぐらせながら

今回の舞台は記憶であるとか、自分が認知していない他人の営みの部分の表現を試みた作品であるということである。
舞台設定も含めて非常に現実なのか夢なのか曖昧な世界観の作品であったが、仮にこれが現実であっても不思議ではないなぁと感じた。
私は今比較的音のしない集合住宅に住んでいる。つまり、他の住人の音というものはあまり聞こえない環境で私は生きているわけである。この事実を整理すると、私は上の住民や隣の住民が窓から部屋に入ったりごみ箱にお椀から水を注いだり、恐怖とも言い換えられるような緊張感のあるフィールドを形成していたとしても、それを私は否定することができないのである。(もちろん住民たちはそんなことはしてないと思う。周りの皆様、ごめんなさい。)

現実は小説よりも奇なりという言葉があるように、ある種現実の怖さといったものが突きつけられる作品であったと私は感じた。

また、前述の通りすさまじい緊張感と恐怖感(これは19時スタートの回にい行ったからかもしれない)が感じられる作品だった。SE(もしくは音楽)や台詞がかなりそぎ落とされており、静寂を感じる時間が大変長かった。その静寂はジョン・ケージの『4分33秒』を彷彿とさせる。
『4分33秒』との違いと言えば、音楽かどうかという点だろう。『4分33秒』は無音の中の物音なども音楽であるという演奏者と観客の共通認識のもとに成り立っている作品であるといえる。しかし、本作は音楽作品ではないため、物音≒悪いもの・マナー違反と捉えられる可能性がある。それに加えて、だんだんと日が陰り建物内に自然光が入ってこなくなり、役者や観客たちの視線が捉えにくくなっていった。これらの要因により、すさまじい緊張感と恐怖感によって場が支配された。
他人の営みを観測するということは、普段自分が見ている他人の見えない部分を見ようとする行為であり、想像の範疇を超えることが起こっても不思議ではない。そう考えると、その観測は緊張感と恐怖感があってしかるべきなのと言えるのかもしれない。


もう少しざっくばらんな感想

先ほど、家に帰宅した。(これまでの部分は帰宅の道中や夕食を取りながら書いていた)
帰宅後飲んだ酒のアルコールもまわってきたところで、もう少しざっくばらんな感想(もしくは期待)を言っていきたい。
前述したとおり、忘れてはいけないのは、本作が せき氏のダイエット演劇企画の一部ということである。本日の内容を踏まえ、今後のダイエット演劇企画に期待したいことについて少しお話したい。

せき氏のダイエットの記録を元に演劇を制作するという主旨の本企画であるが、私は本演劇の制作にあたり必要な過程が2つあるのではないかと推察している。
①推察
②出力
である。

実際に役者が見たわけではないダイエットの様子を推察した上でそれを(脚色や置き換えを行って)出力するという過程が本作の制作に当たり行われたのではないかと私は考えている。(尚、私は演劇に関する知識が皆無であるため、この推察は間違っている可能性は高い)

本作とは関係なく、「推察」と「出力」という行為は非常に重要なことであると私は考えている。
人間は何かしらの要因があって「出力」を行う(例:声を出す、移動する、身体を震わせる……)。そして、その出力を目撃・知覚した者は、その出力が起こった原因を推察することができる。
このような過程を通じて本企画は進行しているものと勝手に私は決めつけているわけであるが、この「推察」「出力」という行為は無意識のうちに社会生活の中で行われるものである。

例えば道ばたで咳き込んでいる人を見たときや、同じ道を行ったり来たりしている人を見たときなどだ。我々は、他人の出力を目の当たりにした際に、その原因や詳細を「推察」することができる。具体例に置き換えてしまえばごく自然なことのように思われるが、現代社会においてこれができている場面がどれくらいあるだろうか。「出力」を目の当たりにした際に、「不快」の2文字で片付けてしまうことはないだろうか(私はある)。
それを「不快」の2文字で片付けずに、「推察」することが人間であればできるハズであるし、したほうがもう少し暖かい社会になる気が私はする。

もちろん、本作はこのようなことを問うたという作品ではないと思われるが、根源的に人間ができるのにやっていないこと・もったいないことに目を向けさせる役割が本作には秘められているのではないかと今回の作品を見て私は感じた。

今後も本企画では、第1回の筋トレという出力からは推察できないような作品がみられることだろう。そういったものの出力に期待し、本文章を書き終えるものとしたい。

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