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帰り道のプレイリストは見せてあげない

 人と会うと、たくさんしゃべってしまう。わたしの悪い癖。大好きな友達に笑ってほしいから、自分が失敗した話を率先してしてしまったりする。おもしろいかは不明。

 いまどこにいるのか発信するのが当たり前、いま何を考えているのか発信するのが当たり前。楽しいことも嬉しいことも悲しいことも辛いこともシェア、シェア、シェア。自分とSNSとの境界線が消えて、いつの間にか他人と自分の境界線も消えそうになる。危ない危ない!自分がSNSに流れ出しそうになるのを、ギリギリで我慢して、下書きに保存する。

 他人はわたしがシェアしたものを組み合わせてわたしを形作っていく。シェアするものが多い人ほど、シェアされている人は知っている気になる。多くのものをシェアしているように見える人は、シェアしたものをもとに見ている人たちににガチガチに形作られている。だからすぐに、「そんなこと言うなんて意外」とか「そんな曲聴くなんて意外」と言われる。わたし達がその人について知っていることなんて、シェアされたものだけなのに。

 わたしは人と会うと、たくさんしゃべってしまう。沈黙が怖い、めんどくさい人見知りの仕方。始めは本当にしょうもないことを、思っていることと思っていないことのギリギリのところを、フラフラとしゃべる。

 長い時間一緒にいたりするとだんだん話題は内側の事になっていく。そして、自分を少しずつ削りはじめる。別に、相手にわたしのことを知って欲しいわけじゃない。ただ、心を許していないと思われないか少し心配になってしまって、ばかだな〜と笑って欲しくて、失敗談とかをだらだら話してしまう。わたしがわたしから流れ出す。

そう、わたしは結構シェアしてしまう人。

 だけどこの世にはわたしなんかよりももっといろんなことをシェアする人がいる。ユーチューバーなんて本当にすごい。映画やドラマよりも生活に近い感じがするし、もしあのドッキリたちが本物なら、自分がシェアすることを意図していない、カメラが回っていると思っていない時間もシェアしていることになる。

 有名人の何かが発覚すると、まるで隠し事をしていたかのように取り上げられるけど、その人たちがそれをわたしたちにシェアしてなかっただけ。本当はそれだけのことなのに。

 でもわたしはユーチューバーじゃないし、有名人でもないから、当面は自分で自分のシェアしたい部分を選んでいくことができる。。。選んで行けるのか?

 インスタグラムのストーリーで泥酔している友達よく見る。映されている人はその姿をシェアしたいと思っているのだろうか。泥酔はシェアされる前提でするべきなのだろうか。泥酔するような人に、自分の見せたい姿を選ぶ権利はないのだろうか。泥酔する人はそこまで覚悟して飲み会に臨んでいるのだろうか。(泥酔はしないほうがいい)

 他人に自分をシェアされる時代になったけれど、それでもやっぱり、見せる姿は自分で選んでいくべきじゃないか?選べるべきじゃないか?選びたくないか?

 人と会うと、たくさんしゃべってしまう。わたしの悪い癖。大好きな友達に笑ってほしいから、自分が失敗した話を率先してしてしまったりする。おもしろいかは不明。わたしは結構シェアしてしまう人。そして今は他人に自分をシェアされてしまう時代。だけど、自分のシェアする部分は自分で選びたいと、強く思う。わたしは人と会うとたくさんしゃべってしまうし、少し自分を削ってしまうけれど、どこまで行ってもその削る部分は自分で選んでいきたいと思ってる。自分のシェアする部分は自分で選びたいと、強く、強く、思う。

 帰りの電車、ヘッドフォンをつける。わたしの大好きな曲しか入っていない、わたしの大好きなプレイリストを一番初めから再生する。自分で作ったプレイリストだから、次に流れる曲も次のフレーズも次の音もすべて把握済み。わたしのプレイリスト!わたしだけの場所。誰にも意外だなんて、言わせない。

あなたはちょっと特別だから、高校生の時の恋愛もお酒を少し飲みすぎた話も教えてあげる。だけど、帰り道のプレイリストは見せてあげない。

ヒラウチ

今日の一曲:Tempalay『そなちね』


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