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多様性なんて大嫌いだ

正欲 / 朝井リョウ

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※言葉を選んでいません。誰かを不快にさせるかもしれないです。文章の引用があります。


読み終わってすぐnoteを開いた。
いつもの140文字じゃ書ききれないと思ったからだ。

読んでいる最中浅く息をしていたんだ、と読み終わってから気がついたくらいに、作者に感謝と畏敬と言葉にできない感情が溢れてきて止まらなかった。

私がずっとずっとずっとずっと前から、誰かに、世の中に言いたくて、でも周りと世間を気にして言えなかったことばかり書いてあった。


ずっとずっと、言いたかった。


わたしは、世の中がしたり顔で使う、枠にハマった「多様性」とかいう言葉が、昔から大嫌いだ。今も、多分これからもずっと。


近しい親戚が、とある身体障害を抱えている。それは確か、100万人だか1000万人だか、とにかく私が一生涯かけても出会えないであろう人数に1人の確率で現れる障害で、その正式名称も漢字ばかりで覚えてないけれど、とにかく目に見えてわかるような珍しい身体的障害だ。

生まれた時から親戚はずっと私の傍にいてくれた。両親が面倒を見れない時に見てくれた年上の人で、私にとっては普通の仲のいい親戚の人。その親戚が他人からどう見られてるかなんて考えたことがなかった。

親戚が、好奇の目を集めるような見た目をしている、と気がついたのは多分小学生の頃だった。珍しいんだろうなとは感じていた気がする。親戚と同じ病気の人は今まで見たことがなかった。

その親戚と街を歩いているだけでジロジロと好奇の目で見られる。

子どもがこちらを指をさして、自分と手を繋いでいる親に「なんであの人ああなの?」と純粋無垢な目をして聞いていたこともあった。上手く答えられない親が「見ちゃダメ」と子どもを隠したことだって、若い大人や一見穏やかそうな老夫婦に「なんだあれ」と、笑われたり眉を顰められたことも、“ふつう”の人達に何回も何回も指を指された。笑われた。憐れに思われた。この歳になるまで、何百回、何千回も、思い出せないくらいある。

私をずっと褒めてくれた優しい親戚は、何も知らない行きずりの他人に「あれ」と呼ばれるような存在なのだろうか。きっと、そんな他人よりずっと優しいのに。


その反面、一日ぶっ続けで放送している夏の番組で映る方々には、同情の目や感動の目を向けて、「こういう人もいるんだよ」と子どもに嘯いている。
「多様性」を盾にしながら、それを理解している自分に酔っていて、いつだってここまで降りてきたりしない。上から「理解してますよ」「そういう人が生きやすい世の中に」と、目の見える範囲でのマイノリティに「理解しているフリ」をずっとし続けているようにしか見えなかった。


そういう人がしたり顔で使う、「多様性」が血反吐が出るほど大嫌いだ。


「障害」を「障がい」に変えたところで、私の親戚に向かう目は一切減っていない。相も変わらず恥ずかしげもなく指をさす大人も、眉を顰める大人も多い。

他人に指をさす行為がどれだけ幼稚な行為だと理解をしているのか、それとも、自分とは違う人間だと勘違いして、「あれ」になら指をさしていいと思っているのか。それなりに大人になったけれど、今でもその答えはわからない。

「自分が想像できる“多様性”だけ礼讃して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちがいいよな」

「お前らが大好きな“多様性”って、使えばそれっぽくなる魔法の言葉じゃねえんだよ」

「理解がありますってなんだよ。お前らが理解してたってしてなくったって、俺は変わらずここにいる。そもそもわかってもらいたいなんて思ってないんだよ、俺は。」

「お前らが想像すらできないような人間はこの世界にいっぱいいる。理解されることを望んでない人間だっていっぱいいる。」

全部全部全部全部全部私の言葉だった。

私がずっと言いたくて、でも、枠にハマった“多様性”が良しとされるこの世の中でずっと言えなかったことが全部、全部詰まっていた。

「自分にはわからない、想像もできないようなことがこの世界にはいっぱいある。そう思い知らされる言葉のはずだろ。」

知らないことは決して悪いことじゃない。
私だって、その親戚が「ふつうのひと」だったら多分知らなかった、運が良かっただけだ。
こんなに偉そうに綴っている私が知らないことだって世の中には腐るほどあるし、私が「いい加減にしてくれ」と思えるのは親戚がいるからだ。当事者でもなんでもない。

でも私が誇れることは、「知らないことを知っていること」と、「世界は簡単に変えられないことを知っていること」だ。

私の小さな世界の外に知らない考えや価値観が沢山あること、そして、「知らない世界」があることを理解しようとしない人がいることがまだ世の中には沢山いる。

この世の中を変えようなんて言えない。言わない。変えられるわけないからだ。

全員を救おうなんて、できるわけがない。

誰かを救おうと思えば、誰かが零れ落ちるのはしょうがないことだ。



でも、知らないことを「自分には関係ない」と笑って、知らないままにしている、そんな人に届かない“多様性”。

自分の目に見えない人を無いものにして救ったような気になって「“多様性”が理解される世の中に」なんて謳われる“多様性”。

上から見下ろしながら、世間に周知して「あげた」多様性は、そんなに世の中から尊敬されるようなことなのか。


全員を救った気になって、枠に収めた言葉で話している「誰か」がこの本を読んで、頼むから目を覚ましてくれと、願わずにはいられない。

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