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中年こそ迷う

最近、「平林さんのnoteが癒しになってます。」と人から言われることが増えました。特に中年の方から言われることが多いです。どちらかというと私は20代ぐらいの人に向けて書いている意識だったので、とても意外でした。人生の先輩方に対して書いていると思うと、本音が書きづらいと思ったので、若者に向けて書いていたのですが。

と同時に「みんな迷走しているのかもな?私と同じで。」とも思いました。40歳の事を不惑と言うそうですが、私は40歳を超えてからの方が迷走しています。

20代前半で社会に入って下積みをし、20代後半から30代前半で自分の足で立ち始め、30代半ばから自分の責任で仕事が回せるようになりました。30代半ばからは「万能感」に溢れました。自分で決めて良いことがものすごく増え、主体性を持って仕事や作品作りをすることが出来ました。100メートル走で言うと、スタートして25mぐらい進んだあたりでしょうか。

スタートして25mぐらいまでは下を向いて地面を見て、とにかく加速を続けるイメージです。100m先のゴールをイメージして自分の力を最大限に出力させます。そしてスピードが乗ったところで顔を上げるんです。

顔を上げるのが40代。

このままの勢いでゴールまで駆け抜けようと顔を上げたら、スタートする時には見えていたゴールが無くなってました。ゴールラインが無くなってたんじゃなくて、ゴールそのものが無いんです。隣との境目のラインも消えています。どっちに走っていけば良いかもわかりません。

だから、足も止まります。足を止めて周りを見るんです。

スタートした時は「あそこがゴールだから」と言われて、それを疑うことはありませんでしたが、25m過ぎに顔を上げた途端ゴールが無くなってました。そして「ゴールは自分で決めよ」と神様に言われるんです。「神様、ゴールを教えてください。」と言っても、目線は合えども、ひと言も発してくれません。鼻の穴のヒラヒラした鼻くそを、フンッ!といって出してるだけです。それがあの「神」なんです。

私たちが子供の頃に大人から言われていた「将来」というのは、100メートル走のスタートに立つまで、良くても25mぐらいまでなんじゃないかと思いました。「勉強しないとスタート地点に立てないよ」「いい大学入らないとスタートダッシュでスピード乗らないよ」ぐらいのことを言われていたんだと思います。その程度のことを成し遂げるために、子供時代を犠牲にするのはもったいないとも思います。幸いにも私は親からそういう事を言われたことはありませんが。

大人は25mから先は教えてくれてません。それはたぶん、まさに子供に教える立場の大人が、顔を上げてゴールが消えた渦中にいたからなんだと思います。呆然と立ち尽くし、「子供たちに教えるどころか自分が知りたいよ」という気分だったからかも知れません。

でも大人はそれを誰にも言いません。年齢的にも人の上に立つようになり、子供や後輩の手本にもなると思いますから「ちょま…ゴール見失った…」とは言えないのです。子供や後輩には、いかにも人生の全てをわかった風で説教をしていますが、「ちょま…ゴール見失った…」とは言えないのです。

そして、「ちょま…ゴール見失った…」と言葉にして言うのが怖いんです。

ゴールを見失っている自覚はあるけれども、「もしかしたら今走ってる方向で間違ってないかもしれない」とも思いたいので、「ちょま…ゴール見失った…」と言って、間違いを確定したくないんです。株価が下がった株も、売らなければ損が確定しないのと同じです。

そして、子供や後輩の手前、全力で走っている姿は見せています。でも心の中では「もはやゴールがどこかじゃないんだ!オレが全力で走ってる姿を見ろ!中年になってもこんなに全力で走ってるんだ!」と思うしか無いのです。ゴールの方向は子供や後輩にも教えられないのです。どうしたらいいんだろうか?と思います。そして、私はやや諦めと達観混じりにこう思いました。

中年こそ結果をすぐに出そうとしないことだな、と。

これは血気盛んな若者に言うべき言葉のように思うのですが、中年こそ大事にすべきなんだと思うんです。中年になると、次から次へ結果を出すことで自分を安心させようとしますし、対外的にも格好がつく。だから、すぐに結果が欲しくなります。

でも、促成栽培の結果は収穫が小さいんですね。次から次へ収穫は出来るかもしれませんが、取れる実が小さいからやってる感が出ないし、本人の満足度も小さくなってしまいます。

だから結局は、しっかり腰を据えて、腹をくくって物事に取り組んで、大きな実が収穫できるまでやり続け、待つしかない気がしています。中年になると、老後や死がボンヤリと見えてくるので、焦ってしまうのは仕方が無いのですが。

そして何となくの思うのですが、結果的に大きなものが収穫出来なかったとしても、そういうどっしりと構えた心持ちで生きることが、「幸せ」ということなんじゃないかと思っています。

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