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わたしと言葉と、心(陸奥新報「日々想」連載1回目)

 一人称のなんと多いことか。

 私、ワ、おら、自分、僕、俺・・・先日「ウチ」と言う女子高生を見かけた。弘前近辺の日本語の会話で聞くのは大体こんな所か。ワイ、と言う友人がいた。むつ出身の大室君。元気にしているだろうか。おいどん、ワシ、吾輩などは使った試しがない(いや、ふざけて使った事は…ある)。

 英語だと「I」で済みそうなそれらを、人々は巧みに使い分ける。とりわけ方言と標準語の混在する場での使い分けは微細である。この土地の人々の言語感覚の複雑さに私はいつも感心する。かく言う私も、それなりに使い分けていると気づく。もし私が十代であれば、「どれが本当の自分だろうか」と自問する所かもしれないが、三十代も中盤となり、最近ではその複雑さ面倒さが、世界の豊かさなのだと、そう思える。

 たとえば「私」一つとっても、ワタシ、ワタクシ、更にこの土地では「ワダシ」が混在する。三者それぞれ、緊張感やあずましさが微妙に異なる。その使い分けは要するに、その相手・場面で最も心地よい話し方を、選んでいるのだろう。

 十八歳で秋田から弘前に移り住んで驚いたのが、津軽弁の残り方の濃厚なことであった。私の育った鷹巣や能代より「三十年分残っているな」と感じた。つまり、秋田の七十代の訛り方を、津軽では四十代が話している、そんな感じである。

 最初は当惑し、あえて私は秋田訛りを堅持しようと試みたが、次第に津軽弁の響きの楽しさや伸びやかさ、微かにこもる悲しさに惹かれて行った。作家の別役実さんが、方言を自然に操る津軽の俳優に感心して言った「歌になる予感の様なもの」に、私もまた愛着を覚えた。そして、津軽弁を覚えないと仕事にならない事情もあり、私も年々津軽弁に染まってきた。

 鷹巣の実家に帰ると、親からは「津軽弁だ」と言われる様になった。地元の同級生と会っても今や私が一番訛っている気がする。それでも津軽の人に言わせると、私の言葉はやはり「北秋田っぽい津軽弁」なのだそうだ。こればかりは育った土地のダシみたいな物なのだろう。今の私の言葉はいわば、比内地鶏に煮干しダシをかけた「奥羽本線ちゃんぽん」である。

 それでも、私は津軽の人々に感謝する感覚がある。津軽弁を覚えることで、故郷・秋田県北の古い言語感覚に近づけるのである。少し不思議な話だが、北秋田とよく似た津軽弁の「三十年分古い感覚」を身に着けると、鷹巣の年寄りともっと深く話せる様になるのだ。

 いつだったか、六年前に九十歳で亡くなった祖父と話していた。その頃にはずいぶん「津軽の耳と口」になって来ていた私は、間違いなく前より祖父と「近い言葉」で話せる様になっていた(口数は少ないのだが)。そこで初めて気づいたのが、祖父が時折自らを「ワ」と喋る事だった。中学高校と同居していたのに、今更そんなことに気づいたのは、津軽の人々の「ワ」を聞き続けた、そのお陰だと思った。

陸奥新報「日々想」2023年10月8日掲載分より

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