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短編小説「peculiar」

 風に桜の花びらが、はらり、はらり。ステンカラーコートの裾がはためき、阪急電車のえんじ色の車体が、ゆっくりと動き出す。金属の擦れる匂いが、花の匂いと混じって鼻孔をくすぐる。どこか落ち着かないこの季節、春の夢の中を列車は何処へと向かうのだろう。ガタン、ガタンと列車の音は次第に遠ざかり、辺りは夢から醒めたように静寂を取り戻す。この季節は嵐山へ向かう観光客で、列車は大変混雑する。はっきり言って、この辺りに住む者としてはいい迷惑なのだが、まあ、そう言うまい。こんな麗らかな春の日なのだから。

 松尾大社の巨大な鳥居を出て、私は振り返って一礼する。べつに仏様を信じているわけでも、積極的に信じていないわけでもない。ただ時々ここへきて手を合わせるのだ。怠惰な無職中年男である私の存在を、仏様はどう思うだろう。少しは憐れんでくれただろうか。松尾大社から橋の方へ向かうと、左手にちょっとした公園がある。その公園を過ぎたあたり、公園で遊ぶ子供たちのきゃっきゃっという声が遠ざかる頃、その家は突如として現れる。

 ひっそりと佇むその家は、古い木造の平屋でいつもカーテンが閉められている。いったい人が住んでいるのかよくわからない。だが人は住んでいるのである。錆びた自転車が玄関先に停めてあるからだ。風化して剥がれ落ちそうな板壁、ところどころ傷んだ瓦屋根、荒れた庭先で寂しい猫たちが集会をしている。と、集会を中止して、猫たちが散った。家の主人が帰ってきたからである。コンビニの袋をぶら下げたその老人は、ショッキングピンクのニット帽を被っていた。

 爺さんが派手な帽子を被って徘徊する様子は、まったくもって珍奇な印象だ。よれよれのジーパンに、色の禿げたチェックシャツの裾を突っ込んで、下駄を履いている。小柄で痩せた体躯が痛々しい。実は、この爺さんを私はかなり前から知っているのだ。爺さんというよりそのショッキングピンクのニット帽が目印となって、街のいたるところで遭遇するのである。

 ある時は桂駅の本屋で見かけた。その時は半ズボン姿にいつもの帽子を着用。真夏というのにニット帽はかなり暑苦しいが、それには構わずに、何やら詩のようなものを熱心に立ち読みしている。変な奴がおるなあ、と思ったが、それが爺さんを見かけた最初のような気もする。ある時は、西京区にある文化会館ウエスティでのクラシックコンサートでその帽子を発見。演目はモーツアルトだったが、爺さんは目を閉じてふんふんと頭を揺らし、音楽に聞き入っていた。というわけで、案外アカデミックな爺さんなのである。とくに近づきたいとも思わないが、疎ましいとも思わない。人畜無害で、彼なりに慎ましく生きているのかも知れない。

 だが、残酷かつ無慈悲な世界は、このような存在を放っておかない。危害こそ加えられないが、公園に集う母親たちは、爺さんが通るとクスクス笑いを始める。その子供が爺さんに小石を投げる。これ以上、エスカレートしていかなければよいのだが・・・・・・私は常から思っていた。

 ある日私は昼間から酩酊して、公園のベンチに座っていた。件の公園である。春風は心地よくなびき、濁った私の頭の中を吹き抜けていく。子供たちが、わいわいと訳の分からない遊びをしている。その声が中空に昇って掻き消えていく。

 ふと、見ると今日も爺さんがいる。缶コーヒーを脇に置いて、何やらコンビニ袋を執拗にがさがさとやっている。缶コーヒーをひっくり返さないか危なっかしいが、私は構わずにヴェルレーヌの詩集をぱらぱら読み始めた。が、がさがさいう音が気になって読み進まない。ちっ、うるせぇなあ。私はわざとらしく、ぱたんと文庫本を閉じて、ぼんやりと前方の景色を見るふりをした。

 と、強い風が吹いた。案の定、爺さんは缶コーヒーをひっくり返し、あっと間抜けな声を上げた。あーあ、やっちまった。私は爺さんに大丈夫か?と声をかけようとした。その時、私の頭上を黒い物体がバサバサと音を立てて通過した。カラスは私の頭を掠めて着地して、私もまた、うわっと間抜けな声を出してしまった。カラスは転がった缶コーヒーを、カラカラと嘴で突いている。

「カラスってのは賢いんやぞ。毎日挨拶しとったら、ほら、寄ってきてのう。可愛いもんや」

 爺さんは誰に話しかける風でもなく、独り言のようにそう言った。カラスはいつの間にか爺さんの肩に移動していた。爺さんは私の手にしていた詩集を見て、

「ヴェルレーヌか。わしも知恵という嵐のような詩が好きでな」

「へえ、そうなんや」

 それが爺さんと初めて言葉を交わした最初であった。

 それから数日後、私が桂川サイクリングロードを女性と歩いていると、前方からショッキングピンクの帽子が近づいてくる。晴れ渡った空に、ゆったりと雲が流れている。こんな春の日に、せかせかと何処へ行くのだろう。心なしか表情が険しい気もする。私は挨拶をしようと手を微かに上げようとした。が、爺さんは目を合わせずにつかつかと通り過ぎてしまった。何だか怒っているようでもあった。なんや、気い悪いな。

「今の人、知り合い?」

 連れの女性が眉根に皺を寄せて、訝し気に聞いた。

「いや」

「変な人と関わり合いにならんといてや」

 私はそれに曖昧に答えて、ふと空の飛行機を見上げた。

 次に爺さんと公園で会った時、

「いや、わしなんかと知り合いやとわかったら、あんたに迷惑なんじゃないかと思ってな」    

 爺さんは俯いたまま言った。

「そんなこと、あらへんで」

 ベンチに座った爺さんは、さっきから足元の蟻を下駄でいじめている。だが踏み潰すことは避けているようだ。

「そんなら、ええがの」

 しばし、沈黙が支配した。爺さんは相変わらず蟻をいじめ続けている。サディスティックな一面もあるのだろうか。私が話題を探しながら、その様子を観察していると、

「この帽子な」

 爺さんは私の方を見ずに、ふいに独り言のように訥々と話し始めた。

「ええ帽子やろ。婆さんが編んでくれたんや、風邪ひくとあかん言うてな」

 聞くところによると、亡くなった奥さんの形見だそうである。寝る時以外は冠っているそうだ。一週間に一度はネットに入れてアクロンで洗っている様子。

「そうやな、色がアクセントになってええな。ええセンスや」

 私がそう言うと、この日はじめて爺さんは、欠けた前歯を見せて笑った。

 またある日、コンビニから出てきた私は、爺さんを松尾大社駅前の交差点で見つけた。自転車に乗っているのだが、なんだかフラフラして、危なっかしいことこの上ない。ハンドルを握る手に思い切り力が入り、時々蹴るようにペダルをこぐ。車の量が多い道なので見ているだけでハラハラする。自転車に乗るのは不得意らしく、緊張が道路を挟んだこちらまで伝わってくる。どうやら、横断歩道を渡りこちらまで来たいようだ。信号が赤から青に変わった。歩行者はさっさと歩きだすが、爺さんはモタモタしている。困ったことに、片手にコーヒーカップを持っているのだ。おぼつかない自転車を片手で乗りこなすのは無理だ。案の定、爺さんは横断歩道を渡り出したところで派手に転倒した。車は非情にクラクションを鳴らし続け、人々は不審な目で爺さんを眺める。私は、舌打ちして助け起こしに走った。

「ほら、爺さん何やってるんや。轢き殺されるで」

 爺さんの身体は気の毒なほど軽かった。私は軽々と爺さんを肩に担いで、安全な歩道に運んだ。親切な中学生くらいの男の子が、自転車を起こして助けてくれた。私は彼に礼を言った。

「爺さん大丈夫か。ん?何を気にしてるんや」

 爺さんは何だか、道路に転がったコーヒーカップにこだわっている。が、無様に転がったカップを車が踏みつぶして左折する。

「やっとの思いで買うたんや・・・・・・」

 爺さんはまた道路に飛び出しかねない様子だ。

「ほら,そんなもん諦めろ。コーヒーなら俺がまた買うたるから」

 聞くところによると、爺さんにとってはコンビニのコーヒーが今風で憧れだったようだ。かねてから缶コーヒーではなく、カップでコーヒーを飲みながら、若者のように闊歩してみたかったらしいのである。

「わしはやっとの思いで買うたんや。わしが機械の前でモタモタしとるのに苛立つ奴らの舌打ち、店員の冷笑、そんなものにわしは打ち勝ったつもりやったんや」

 私はそんな爺さんが気の毒になった。また俺が一緒に買うたるから。それやったら安心やろ。そう約束して、その日は爺さんのとぼとぼと家路につく後姿を見送った。

「この間は、すまなかったな。ちょっと興奮してしもて。みっともない所を見せてしもた」

 最近では、三日に一度は爺さんと顔を合わせているが、べつに会いたいわけでもない。習慣になっている散歩のルートが桂川サイクリングロードなので、例の公園で一休みしてから引き返すときに決まって派手な帽子と出くわすのだ。今日もそうである。

「いや、すまんかった」

 爺さんはニット帽を外して、禿げ上がった頭を下げた。

「やめろって。そんなんええから」

 私は手を払うようにして、再びニット帽を冠るよう爺さんを促した。再び冠ると爺さんは、

「わしの家は、そこなんじゃが」

 爺さんは顎でしゃくって見せた。むさ苦しいが、ちょっと寄って行けというのである。私は承諾して爺さんの後に続いた。

 少々抵抗があるのは確かである。近所の目もあるし、第一、とっ散らかっていかにも不潔そうである。だが、意外や意外、玄関の引き戸をガラリと開けると、案外整頓されている。掃除も行き届いていて、気にしていた悪臭が漂うこともなかった。そのかわり、玄関脇に置かれた小さめの本棚にびっしりと並んだ宗教書が、訪問者にいささか衝撃を与える。私は立ち止まって、

「なんや、爺さんはキリスト教徒やったんか」

 爺さんは、スリッパを私に差し出しながら、

「ああ、名ばかりのクリスチャンやがな。まあ、それより奥へ入ってくれ」

 ぎしぎしいう短い廊下を伝って、左手のリビングに入ると亡き奥方の写真が壁に掛けてある。奥方の微笑が私を迎えた。

 「恋女房じゃ。去年亡くなってな、癌やったが最期はひどいもんやった」

 やり切れない様子で言うと、小さく十字を切った。

 「だがな、会えなくなれば恋は終わりというわけでもなかろう。わしとこいつは永遠に一緒じゃ」

 私もならって、小さく手を合わせてみた。

 「そうか、気の毒にな」

 爺さんは答えずに、緑茶でええか、と台所へ向かった。奥方の顔は爺さんを信頼しきっているものだった。

 それからは、ちょっとした宗教論になった。水を得た魚のように盛んに持論を展開する。

 「わしが気に入らんのは、同じ神を信じるもの同士、見解が違うからと言って、罵り合うことじゃ。わしは失望した」

 爺さんはカトリックでもプロテスタントでもない、何だかよくわからない団体に入っていたことがあって、てひどい目に遭ったようだ。

 「そうじゃろう、そのことこそが全ての元凶であって、殺し合いの理由なんじゃ」

 その持論は稚拙なものかも知れないが、爺さんの人柄をしのばせるものだった。変な帽子を冠っているが、極めて人道的なのだ。

 爺さんはやがて、コンビニのコーヒーを機械操作して一人で淹れられるようになった。私が店頭で淹れ方を教えたのである。淹れ方といってもピッとボタンを一回押すだけだが。最初の頃の爺さんは、機械が反応しないものと思い込んで連続してボタンを押した。結果、コーヒーが溢れるわ、機械が停まってしまうわ、後ろに並んでいる人間の顰蹙を大いに買うわで惨憺たる有様だった。

 「ほらな、何でも焦る必要はないんや。この世に焦る程の価値があるものなんか何一つない。太宰さんもそう言うとる。ただ、一回ピッて押すだけや」

 爺さんは神妙に耳を傾けて、三回目にはコーヒーを一人で淹れることに成功し、イートコーナーでそれを二人で飲んだ。

 「どうも、ありがとう」

 「いや、こんなつまらんことで感謝されてもな」

 爺さんは顔をくしゃくしゃにしてコーヒーを啜った。爺さんとの奇妙な友情?が結ばれ、何だか爺さんの喜ぶ顔を見るのが、私も嬉しくなってしまった。

ある日、私が公園でワンカップ大関を昼間から飲んでいると、肩にカラスを乗せた爺さんが近づいてきた。

 「昼間からなんじゃ。あんた、そろそろ仕事はじめたらどうや。てか、あんたは人間としてもう終わっとるぞ」

 楽し気な爺さんに、私はそうやねと生返事をして、

 「爺さんこそ、昼間は何しとるんや?あんたこそカラスと仲良うなって、西京区の不審人物ナンバーワンやで」

 爺さんは私の隣に腰かけ、辺りを見回した。

カラスは肩を降りて、バサバサと車道の方へ飛んで行った。

 「爺さん酒は?」

 「飲めんことはないが」

 私はコンビニで買った二本目のワンカップ大関を袋から取り出して、飲むか?と爺さんに聞いた。爺さんは少し迷っているようだったが、それを受け取りパカッと開けると、ぐびぐびと半分くらい飲んでしまった。

 「おいおい、そんないっぺんに飲んだらあかんで」

 「まあ、ええやないか」

 公園の桜は散って、葉桜の季節に移行しようとしている。風が強くなって、葉桜がざわざわとなびく。ふと空を見上げると黒雲が迫ってきて不穏な感じだ。さっき来たところなのに、一雨きそうな気配である。

 「降りそうやな。その前に退散するよ」

 私は空き瓶とその他のごみを、コンビニの袋に突っ込み、立ち上がった。

 「なあ、あんた」

 「ん?」

 私は早く帰りたかったが、爺さんは落ち着いてワンカップ大関を楽しんでいる。家が近い爺さんと違って、私はちょっと歩かないといけない。

 「わしに、なんでそんなに良くしてくれるんや?」

 「え、何も考えとらんけど?」

 私は雨が気になって、ほとんど聞き流している。わあ、こりゃ間に合わんな、とぶつぶつ言いながらコートに袖を通す。

 「ほな、爺さんも適当に帰れよ。気をつけてな」

 空はみるみる黒くなり、雷雲が近づきゴロゴロと不穏な音がしはじめた。私は振り返らず足早に公園を後にする。カラスが何かを訴えるようにしきりに啼き続けていた。

 酒を買い与えたのがきっかけで、爺さんが昼間から酔うようになってしまうのに、時間はかからなかった。私は爺さんに酒を覚えさせた自責の念に駆られ、自らの迂闊さを呪った。たちまち爺さんの家の床には、空き瓶が転がるようになった。部屋は乱雑になり、なんだかすえた様な匂いが充満する。知的だった爺さんの顔つきまでが、どこか下卑た印象を与えるものとなった。

「爺さん、酒は寝る前にちょっとだけにせえ言うたやろ」

「まあ、ええやないか」

 爺さんは生返事をして、

「どうせ、苦しみは死ぬまで続く。酔っぱらっている間だけは、苦しみから逃れられるんや」

 と独り言のように呟く。

「そやけど・・・・・・」

「もうすぐや。もうすぐあいつの所に行けるんや」

 私は弱り切ってしまった。以来、爺さんに会えば酒をやめよというのが習慣となり、それに反して爺さんはかたくなに酒瓶を離さない。爺さんが酒に依存するのに比例して、私の態度もまた依存的となっていった。私は人と関わると、どうしてもこうなってしまう。私は三日と開けず爺さんの家を訪問するようになった。気になって仕方がないのである。

「あの馬鹿め。勝手に死んでしまえ」

 私は譫言のように繰り返しながら、自宅と爺さん宅を狂ったように行き来するのであった。

 それからしばらくたったある日、爺さんは公園で遊ぶやんちゃな子供達にからまれ、囃し立てられていた。「酔っぱらいのじーさんは出ていけ」「汚いなあ」「存在自体が鬱陶しいんや」子供というのは残酷なものだ。出ていけ、出ていけと罵声を浴びせて、小石を投げるだけでは飽き足らず、調子に乗った一人が爺さんの足を蹴った。爺さんが声をからして怒声を張り上げるたびに、子供達はどっと笑った。煮えくり返った私は、子供達の背後にそっと忍び寄り、一人の後頭部を平手で打った。そうしてポケットに手を突っ込んで、子供達と爺さんの間に割って入って立ちふさがり、思い切り睨みつけた。一瞬で火の消えたように子供達はしゅんとなった。やがて怯えた子供達は半泣きになって、一人、また一人と退散していった。私は爺さんの服の汚れを手で払ってやりながら、

 「注意したからな。もうせんやろ」

 「注意って、ちんぴらが子供をいじめとるようにしか見えんがの。やりすぎや」

 「俺は子供が嫌いや」

 「そやからって・・・・・・」

 爺さんはウィスキーの瓶を握りしめたまま立ちつくしていた。なんだか言いたいことがあるようだが、助けてもらった手前、控えているようだ。

「そんな酒瓶抱えとるから目立つんや。ところでまた痩せたな」

 ったく、と私は吐き捨てながら、後ろポケットから財布を出して、千円札を数枚抜き取り爺さんの手に握らせた。なんだか気持ちの悪いヒロイズムに酔っている私は、この事件が原因で、爺さんがますます白い目で見られることに気が付かない。

「酒買うたらあかんで、食い物を買えよ。ほな、俺は帰るからな」

 二、三度振り返りながら私は公園を後にした。去り際に爺さんは不服そうに小さく礼を言った。

 この時ばかりは、爺さんを心底馬鹿だと思った。日が暮れて肌寒くなってくる頃、私は酔っぱらって例の公園のベンチで横になっている爺さんを発見した。すっかり眠り込んで、横には空になった酒瓶が転がっている。四月の中旬とは言え、日が暮れればまだまだ寒いのである。私はつかつかと歩み寄り、爺さんの襟首を掴んで叩き起こした。

「爺さん、ええ加減にせい」

 私は半ば泣いていた。

「風邪引いたらどうするんや。命とりやぞ」

 爺さんはむにゃむにゃと意味不明なことを口走り、要領を得ない。私は着ていたステンカラーコートを脱いで、爺さんの肩に被せようとしたが、爺さんは邪険にそれを振り払った。私は怒りのあまり、ショッキングピンクの帽子を掴んで剥ぎ取った。それを地面に叩きつけようとして逡巡、踏みとどまった。爺さんは、大事な帽子を奪われたので一気に覚醒したようだ。

「放っておいてくれ」

 と、爺さんはついに怒鳴った。

「放っておけるか」

私と爺さんは睨み合った。

「あんたな」

 鬱積していたものが、怒涛の様に爺さんの口をついて出た。

「あんたこそ、ええ加減気が付かんか。あんたが何を思って、わしに構うようになったのかはわからん。じゃが、あんたは自分に酔っとるだけじゃ。さもなくば、あんたはよっぽど鈍感な奴じゃ。わしだけやない、あんたもすでに白い目で見られつつあるんやぞ、それが分からんか。まったく迷惑千万な人間じゃ」

 爺さんの矜持を傷つけてしまったのか、私の欺瞞を嫌悪して我慢がならないのか、爺さんの目には明らかな敵意が宿っていた。

「爺さん・・・・・・」

 私はやりきれなくなった。

「もう、わしに構うな」

「ああ、わかったよ。爺さん、頼むから飲みすぎんなよ」

 私は帽子を爺さんの膝に放り投げ、その場を立ち去った。こうして爺さんと私は袂を分かったのだった。

 私とて、べつに爺さんを救済しようとか考えていたわけではない。何とはなしに爺さんの喜ぶことをしてやりたかっただけだ。不憫に思ったのだ。思えば人間の感情で真実なのは憐れみだけかも知れない。人の善意や優しさなんてものは欺瞞であって、単にエゴの変容したものだ。人はみな自分がかわいいだけの存在である。最近読んだ本にはそう書いてあった。だがしかし、だがしかし・・・・・・爺さんとは、それからも度々顔を合わせるのだが、目を合わせずに黙礼を交わすのみとなった。もちろん爺さんが心配ではある。爺さんが地獄へ転がっていくのに指をくわえてみているだけの私は何ともやり切れず、自らの酒量も増えてしまった。これまた、アイロニーと言わざるを得ない。そうして季節は、春が終わりを告げて、やがて梅雨となり、初夏を迎えた。

 暑さのあまり、私はアイスクリームを買い求めようと、松尾大社駅前のコンビニへやって来た。涼しい店内に客はまばらで、つまらない流行歌が小さく流れ、若い店員が欠伸をしている。私はガリガリ君がそれほど好きでない。雪見大福が好きである。連れの女性は、何やら日焼け止めのようなものを物色している。

「おい、お前もアイス買うたろか。しかし、暑いなぁ、七月やもんな」

 後ろから呼びかけると、連れの女性はうん、と生返事をして、熱心に日焼け止めクリームを選んでいる。私は何となく、女の汗ばんだ首筋と、ブラジャーの透けて見える背中を眺めていた。

「おーい、早よせえよ」

 私が呼ぶのに、女はひっという悲鳴で答えた。

「ちょっと、レジの方見てみ」

 見慣れたというか、懐かしささえ感じるショッキングピンクの帽子がそこにあった。

「うわぁ、変な人おるぅ、帽子も変やけど断酒ってなんなん?」

 爺さんは帽子に加えて、大きく「断酒」と書かれたゼッケンを身に着けてポカリスェットを買い求めていた。下駄をニューバランスに履き替え、恐らくランニング中と見える。レジの前でも足踏みをやめない。店員の女の子は笑いを必死でこらえている。ああ、爺さん・・・・・・

「あのお爺さん、知り合い?前から気になってたけど。それにしても、あのお爺さん泣いてはって何だか気の毒やわ。って、なんであなたまで泣いてるの?ちょっと、ちょっと!雪見大福放り投げてどこに行くの」

 滑稽でもいい。それを嗤う奴を私は許さない。爺さんの姿は角を曲がって見えなかったが、私は乱暴にコンビニのドアを蹴って熱気の中へ飛び出し、爺さんの後を全速で走って追いかけた。女の呼ぶ声が背後でこだまする。汗か涙か判別のつかない液体が飛び散り、太陽に焦がされ気体となった。

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