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『小鳥ことり、サクラヤマのぼれ』09

【ケンちゃん】

 駅前に降り立ってから元白鳥行きのバス停まで行ったは良かったが、ヒワはそこから動けずにずっとベンチに座り込んでいた。
 やっぱり智恵に相談しよう、今からアパートに行っていいか電話してみよう。
 細かい震えはまだ収まらなかったが、ようやく自分のスマホを開けてみる。
 目玉は消えていた。そして、『呪われました』の文字も。
 信じられない思いで、人差し指でそっと画面を撫でてみる。メールが何件か入っていた。画面が反応し、メールの受信ボックスが開く。
 智恵からもメールが来ていた。昨夜遅くのようだ。一番に開いてみた。
『北海道での仕事が長引いて、今週末まで帰れません。緊急の用事があればママに連絡してね。返事は遅くなるけど質問だけなら答えられるから、またメールしてね』
 つい肩が下がってしまう。呆然としたまま、次のメールを開く。母からだ。
『元気? 生活費を振り込んだから確認して』
 それだけだ。
 まさか娘がとんでもない事に巻き込まれかけているなどとは想像もしていないだろう。
 メールはスマホの販売店からあと二通、もう一通は電話帳登録されていない、知らない番号からだった。
 さんざんためらってから、やはり相談を先に、と思ってまず智恵に電話をかけてみる。
『おかけになった電話は、電波の届かないところか、電源が……』
 爽やかな女声が、淡々とそう告げていた。
 涙がこぼれそうになって、ヒワは目頭を押さえる。
 呪われた、の文字は消えていたから、もう大丈夫なのかとも思ったが、ヒワの目の前で自分の顔を突いたあの子はなぜ、「かわりがきた」と言ったのだろう。
 第一、あの子は無事だったんだろうか?
 気になって気になってしかたないのに、どうしても病院に戻る気にはなれない。
 このまま帰っても、目玉ババアに何と報告すればいいのか。正直に伝えていいのか。彼女はどんな反応をするのか恐ろしかった。
 怒りだすのか、それとも、嗤うのか。
 それに、更に『おつかい』を命じられたらどうすればいい?
 どこにも相談することができない。
 ヒワは呆然としたまま、つい習慣で残ったショートメールを開いた。
 文面を見たとたん、どくんと心臓が跳ね上がる。
『先日、神社で会ったの、ヒワだよね? 研一です。こっちにいるって聞いた木がして』
 ケンイチ、という名には覚えがあった。あの時、どこかで見た顔だとお互い思ったわけだ。
 幼い時に元白鳥に来るたびに、一緒に遊んだ子だった。
 おじいちゃんちのすぐ近くに住んでいた、ヤベケンイチ、ケンちゃん、同い年で、身体のちっちゃい泣き虫で、それでもなぜか気が合って、ヒワは大好きだった。
 ヒワが中学卒業の春に、おじいちゃん宅に家族揃って一度遊びに来たことがあった。その時、たまたま寄ったケンイチが、あまりにも背が伸びてしまって何も声をかけることができなかったのだった。
 帰り際に、また、ケンイチがやってきて、そっぽを向きながら小さな紙を手渡してくれた。
『オレ、ケータイ持ったから』
 その番号に一回だけ、ショートメールを入れた。
 しかし彼からは返事がなく、ヒワも、電話帳登録すら忘れて、それっきりになっていたのだ。
 神社で会った時には、更に背が伸びていた。それに、ずいぶん恰好よくなっていた。
 それでも、あの、口をあんぐり開けた表情ですぐ思い出せばよかったのだ。ケンイチは泣き出しそうになる時、よくあんな顔になっていた。
 その度にヒワは「ケンちゃん、しっかりしなよー!」と肩をどん、と叩いたものだった。
 「木がして」と誤字になっているのも彼らしい感じがした。
 彼が川に落ちそうになった時も、サボテンの鉢の上に尻もちついた時も、ヒワが何かと助けてやったものだ。
 でも今度は……もしかしたら、彼が助けてくれるかもしれない。
 ヒワは番号を選んで、通話ボタンをタップした。
 二回も鳴らないうちに「はい」ぶっきらぼうな、低い声が答えた。
「あ、けん、ケンイチくん?」
「うん……」誰からかかってきたか、ロクに見ずに電話に出たのか、返事は相変わらずつっけんどんだった。しかし、がさごそとしばらく音がしてから急に
「今どこ?」
 こう訊ねてきた。テンションはたいして変わっていないが、相手が誰なのか分かったようだ。
「こっちにいる、今は青沢駅前だけど。今から元白鳥行きのバスに」
「乗るな」
 鋭い声で彼はそう制す。「駄目だ、こっちに来ちゃ。待っていられる?」
「え? う、うん」
「二十分くらいで行くから、マック分かる? 駅北の」
「分かるよ」確か歩いて五分くらいだ。
「そこで待ってて」すぐ行く、ともう一度言ったようだったが言いながらすでに電話を切ろうとしていたようだった。
 以前からあわてん坊、そして早口で自分の興味のあることだけをまくし立てるようなマイペースな少年だった。かなり小柄でやせっぽち、いつも連れ歩いている(というか彼が引っ張られている)妹がころんと丸い体型だったので、ふたり一組でイメージが出来上がっていて、先日会った時にまるっきり気がつかなかったのだ。
 それでも、ようやくヒワは大きく息をついた。
 
 マックの奥まったあたりでホットコーヒーを抱えて、ずっと入口あたりを見張り続け、二〇分近く経った頃だろうか、ドアを大きく開いて、黒づくめの姿が大股で入ってきた。 
 端正な顔立ちとルックスがかなり人目を惹いたようで、女性が何人か、姿をじっと見上げている。
 蓬髪がグレイかかっており、片目が隠れている。それに、ギターケースを背負っているので、ヒワはてっきり人違いかと思っていったん目線を外した。
 しかし彼はきょろきょろとあたりを見回してから、つかつかとヒワの近くにやって来た。
「よぉ」
 連れが女性だと気づき、目で追っていた連中はつまらなそうに手元に目を落とす。
 ようやく店内が元のざわめきを取り戻した感じだった。
 やってきたケンイチはそんな変遷もまるっきり意に介していないようだった。
「お待たせ、先に朝マック買ってきていい?」
 真剣な表情のままそう問う。
 更に待たせる気だ。しかし、ヒワは顔を見るなり急に力が抜けて、「うん、いいよ」と答えていた。
 彼はギターケースを壁にあずけ、カウンターに向かって、間もなくトレイを片手に戻ってきた。
「朝飯がまだでさぁ、炊飯器開けたら水と米。ふわふわの飯じゃなくて、ひんやりしててさぁ、昼に炊きあがるようにセットしてあったんだってさ。喰いながらでいい?」
「ギターは何」
「この近くの連れ、つうかセンパイに借りててさぁ、年末までに返せよ、って言われてたんだけど、いいかげん返さないと、腐ったトマトぶつけるぞ、っていつも脅すんだソイツが」
 声は低くなったが、イントネーションやトーンは昔のままだった。前髪の間からのぞく目も相変わらず切れ長な割に優しそうだ。
 懐かしさについ流されそうになり、ヒワはぶるりと首を振る。
 彼にどこまで話したらいいのか、力加減が分らなくなってきた。水と米とかギターとか腐ったトマトとか、今の自分には全く関係のないシーンばかり、脳内をぐるぐる廻ってしまっている。確かに数年ぶりに会う割に、あまり堅苦しい感じがしないのだが、それでも、急に流血沙汰の話を持ち出してもいいのだろうか。
「ねえ」
 ヒワは遠慮がちに口に出した。
「食べている所悪いんだけど、あまり気分のいい話じゃない、としたら?」
「たとえばどんな?」
「う……ん」
 ヒワはちょっと方向を変えて、まず聞いてみた。
「なぜ元白鳥行きに乗っちゃだめ、って言ったの? さっき」
「ヒワ、おまえさぁ」
 ケンイチはバンズの間から落ちそうになっていたベーコンを器用に長い指でひっかけ、口に運んで租借しながら言った。
「団地に越したんだって?」
「うん、誰かに聞いたの?」
「すぐにそんなの村中に広まるしさぁ。あと、目玉ババアに会ったんだろ?」
「え、」ヒワが固まる。
「何で知ってんの?」
「うちのじいさんがさ、おまえがあの家の裏から出てくの見たって」
「ヤベじいが?」
 ケンイチの祖父は、ヒワもよく知っていた。ヒワだけでなく、元白鳥の子どもたちにとっても、ヤベじいはかなり人気者だった。
 それにしても、裏から出たと言えば、初めて彼女の家に入った時のことだろう。あの時訪ねてきたひとりは、ヤベじいだったのだろうか。
 しかしそこを尋ねようとした時、意外なひとことにヒワは口を丸く開けたまま絶句した。
「目玉ババアに、呪われてないかと思ってさぁ」
 

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