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常連の多い一方通行風呂

 その銭湯に行くと、出られなくなる。そんな噂を耳にした。

 昔からの屋根の重そうな一軒家。飴色の板でそびえる番台と古びた藤篭、タイル張りの風呂場には、お約束の富士山が青々とした空の下にくっきりとそびえている。
 中は自分ひとりだった。
 お湯はかなり熱く肌を刺したが、ゆるりと縁から湯をこぼして静かに沈むうちに、気にならなくなった。

 ふと揺らめく湯気の中見上げた富士山の絵、裾野を小さな豆粒ほどの影が、つつーと滑っているのに気づいた。
 頂上から、雪のない辺りまで、そして装飾的な雲を突き抜けて、何粒か。
 わー、というかすかな声を聴いた気がした。
 いくつかの籐籠に畳んだ下着を見ていた。他に湯に浸かっている者がいないのは変だろう、と気づいた時には自分も裾野を滑り落ちていた。
 わー、と叫ぶうちに雲に突っ込んだ。空気が薄く、息が詰まる。

 気づいた時には田子の浦に浮かんでいた。

「常連なのさ、わしゃ」
 脇で浮かんでいた老人がそう言って片眼をつぶってみせた。


(410文字)

お風呂面倒派ですー!
またまたたらはかに(田原にか)さんの6/30付け企画に参加しました。
裏お題は思いついたら、チャレンジしてみます!


たらはかにさんの記事はこちら。

企画にホイホイ乗って書いてしまった自作置き場はこちらです。よしなに。

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