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「スタンポンの穴」 第七話

「あれ」
 同じことをやっているらしい、夏目はスイッチを何度か押している。
「電気がつきませんね、まあいいや、僕の後からついて来てください、ここずっと通路あるんで。カーテン開けるついでにこっちの電源を」
 教卓のすぐ前に夏目が迫ってきたのが判った。画面にも夏目の足跡がぼおっと光って映っている。科学部顧問だからなのか、彼もタグをつけたままのようだ。
 四宮は思わずあ、と声を上げそうになる。
 このままでは夏目はあの『穴』の上を通るだろう、歩幅から考えてもそこを踏む確立はかなり大きい。
 だめだ、と夏目に声をかけたい……いや、本当は見てみたい。
『穴』を踏むのか、それとも、うまくまたぐのか、もし踏んだらどうなるのか。
 四宮はつい、教卓の影でスマホの画面を見る。
 スマホからの灯りが漏れないよう、教卓のくぼみに嵌り込むようにして、彼は育ち過ぎた胎児のごとく、身体を丸めてただ、息をつめる。
 夏目のタグの、蛍のような光が二つ。
 光は一瞬ゆらいで、穴の上を跨ぎ越した。ちょうどいい距離で。
 まるで見えているかのように。
 急に足跡が止まった。
「あっ」
 後ろからついてきた修理業者だろうか、夏目の背中にぶつかったらしい。
「すみません」
 夏目がふり向きざまにそう声をかけたのと、
「ひ……」
 業者の男が喉から笛の鳴るような音を立てたのは、ほぼ同時だった。
 生臭い風が四宮のかがむスペースにまで回り込んだ。教室はむし暑いくらいだったのに、その風は妙な冷気を帯びていた。ぞくっ、と首筋のうぶ毛が逆立つ。
 画面から目が離せず、彼はただ小さく固まっていた。夏目の足跡と、自分の足跡、自分のすぐ後ろ、黒板に貼りつくようにあるみずきの足跡は微動だにしない。
「なん……あっ」
 修理の男らしい声は明らかに怯えていた。床から細かい振動が伝わってくる。地震よりもまだ細かく激しく、耳の中が痒くなった。
「なんですかっ、これは!!」
 あっ、と叫ぶ合い間にようやく男が声に出した。
「痛い! 痛い! ああっ」
 ばきばきと何かが続けて折れ、掃除機が激しく吸いこむ時に似た音に、ずぶずぶと湿った水音が混じっていた。「助けて助けてあヴヴ目が助けてイダイあが……」
 骨が折れるにしては、やけに簡単なパキパキという音が教室中に響いていた、四宮はすでに後ろにいるはずのみずきの存在も忘れ、教卓の薄い壁板を挟んですぐ前で行われている惨劇にただ心を奪われていた。目はあくまでも、画面を見つめて。
 彼らのと夏目の足跡は相変わらず動いていない。動かない足跡のはざまでは何か彼の予想だにしなかった恐るべき事態が進行中なのに、それは一切、画面には映し出されなかった。
 それでも彼は息を詰めたまま、目を離すことができない。
 人間の悲鳴とは認めたくない音が、徐々に床に下がっていくようだった。
 それにつれて音量もわずかずつではあったが、小さくなっていく。
 臭いは逆に強くなった。生臭く、すべての汚物が混ざり合ったような匂い、四宮はできるだけ風を吸い込まないよう、息を止めて袖口に鼻を埋めた。

 時間にしたら数秒だったろう、しかし、四宮には断末魔の悲鳴が永遠に続くかと思えた。耳も覆いたいくらいだ、でも、手は大事なスマホから動かせない。
 最後に、大きな吸い込み口がずぞぞっと残った水を飲み干す音が続いた。それが案外長い、待っても待っても水気が切れないという感じだった。
 頼む、早く止んでくれ、四宮はいつしか両手でしっかりとスマホを握りしめている。汗で手が滑り、取り落としはしないか、と更に手に力を込める。力を込めれば込めるほど、スマホは手からすり抜けそうだ。
 目にも汗が入る。肩口で汗を拭いた時に、眼鏡の縁が目の端に食い込み汗がよけいに目に飛んだ。
 眼鏡を外して目を拭くこともできず、彼は更に両手指に力を入れる。
 これさえちゃんと持っていれば自分は助かるかも知れないと漠然と感じていた。根拠がないのは重々承知だった。
 自分さえ、正気を保っていられたら、そしてスマホをしっかりと持っていられさえすれば、自分は助かる。
 スマホの画面から切り離された闇に、何かの軌跡がいっしゅん、見えた。
 薄く白いそれは、画面の縁に当たって軽く跳ねる。
 ピンポン玉? 四宮が思う間もなく、白い玉の後ろにわずかに伸びるしっぽが、ぴちゃんと右手親指の根元をかすめる。
 湿っぽい柔らかい感触とともに、細かいしずくがひとつ、明るいスマホの画面に乗った。
 赤く輝く、しずくがひとつ。
 四宮は慌てて右手を離し、シャツの端に何度もこすりつける。震える左手でしっかとスマホを握ったまま。画面を汚したしずくには、とても触れる気にはならなかった。
 何度拭っても、手には何かが触れた感触が、しっかりと刻まれている。
 濡れていて、熱い。
 四宮はわずかに目をそらす。
 画面の外、床の上に転がる白い球体が視界の端に入った。
 魂の形にも見える、球体の後ろのしっぽ状のものがまた目に入り、それが何なのか理性が把握する前に、四宮はまた画面に目を戻す。画面の左端近くに飛んだ染みはすでに、固まりつつあった。
「スマホさえ、」
 手が固く結ばれ、頼みの機械は身体の一部のように感じられる。
「しっかりと持っていられたら」
 心の中で、四宮は何度もつぶやいた。
(でも)
 不気味な音はまだ続いていた。
(でも、もしも)
 最後に、最後にあの吸い込む音が済んで、その後に
 ぽんっ! 
 と空気の鳴る音でもしたら……
 どこか可笑しげな、間抜けな、呑気そうな音でもしたら……
 漫画にでもありそうな音がしたら……

―― 僕は発狂するかもしれない。

 急に笑いの発作が、腹の奥からこみ上げてきた。
 外に声が漏れないよう、四宮はぎゅっと前屈みになり更に体を固くする。
 可笑しいぞ、吸い込んだ最後に、ぽんっ! そんなことがあるのか? 
 あの男が穴に落ちて、ずるずると吸われて、ぽんっ!

―― スタンと落ちて、ぽん!

 エレンの陽気な声が頭の中に鳴り響く。
「だからすたんぽん、っていうんですねー、エレンもすたんぽんの穴、見たいです~~」
 妄想に違いない。でも
 可笑しいじゃないか。すたんぽん、すたんぽん、
 スタンプ・オン? 違うよこれはすたんぽんの穴だ。
 すたんぽんぽんぽんぽん吸い込む音が止んだら最後には

――どうしよう、僕はもう駄目だ。


 気づいた時には、静寂が訪れていた。
 肩口で眼鏡を押し上げるように顔の汗をぬぐう。
 ぬるぬるする手の中の端末を持ち上げ、画面をみた瞬間、夏目の声がした。
「そんな所で何やってるんだ」
「せんせい」
 背後、頭の上から声が聞こえた。呆然と、消え入りそうな声で。
 みずきはいつの間にか、立ちあがっていたようだ。
―― 頼むみずき、頼む。
 四宮は完全に息を止める。
―― 俺は見つかっていないだろうか。見られたくない。頼む。
 頼む、みずき……それ以上しゃべらないでくれ。
「成島か……」
 夏目の足跡がわずかに動いた。
「せんせい、今の、何ですか?」
 返事は未来永劫聞くことはないだろう、そう思っていた四宮に、やがて
「何でもないよ」
 夏目の声が届いた。いつもと同じ、少し疲れたような優しい声だ。
「それよか、どうした? そんな所で。一人か?」
 心臓がびくり、と胸の中で踊り上がる。
「はい」
 みずきははっきりした声で答えた。
「すみません、部長がこの部屋の特異点を実際に見たい、って言ってたんで、先にこっそり見に行って後から報告して驚かせてやろうかな、なんて思って、それでたまたま今日、図書室に行きたいな、って思って」
 夏目に疑われないように、なのだろうか。
 みずきの口調はよどみない。
 先ほどまで感じていた悪臭は一切なくなっている。閉ざされた教室のむっとした熱気は相変わらずだったが、視聴覚室は、普段の貌(かお)を取り戻しているようだ。
 急に、よく嗅ぎなれた香ばしい匂いがすぐ近くから漂ってきた。
 気になってそっと手をのばすと、小さな紙袋の包みに触れた。昼に彼女が残したポテトだ。揚げ油の香りがぷん、とまた鼻に届く。
 手を引っこめようとして、一瞬、手がみずきの靴をかすめた。
 ほんのせつな、手先に感覚が伝わった。みずきの足は、細かく震えていた。
 四宮は固まる。
 やはり、みずきも気づいたのだ。あれは夢でも幻覚でもなかったんだ。「あれ? 先生、誰かと一緒だったんじゃ?」
「ああ……せっかくパワポが使えるようになったのに、PCの方がイカレちゃったみたいでね、業者に来てもらったんだが教室の入口まで来たら、忘れものした、って車に戻っちまった」
 ははは、と頭をかいているようだ。急に真顔に戻ったように夏目が言った。
「そりゃそうと、図書室が開いてたの、昨日までだぞ」
「えっ!」
 みずきのとぼけ方も堂に入っている。
「がっかりだなあ……ここも何もなかったし、ガッカリ」
「得てしてそんなもんさ。まあいい、先生も職員室に戻るし、お前も出なさい」
「はい」
 四宮の手を一瞬意識したように、靴は動きを止め、それからさっと離れていった。

 二人の話し声が遠ざかり、ようやく気づいて四宮は画面を見た。
 足跡がふた組、ちょうど画面の端から出ていくところだった。
 画面を食い入るように見つめていた四宮は、ようやくそこから目を離した。同時に、するり、とスマホが手から滑り落ちた。
 乾いた音でスマホが床に当たったが、手は強張ったままで細かく震え、すぐに動かすことができなかった。


 どうやってその部屋から逃げ出すことができたか、そこのところがあまり記憶にない。
 気づいた時には、四宮はひとり、菜園の端にいた。
 学校にこっそり入るのはこちらからがいいだろう、と自転車を少し離れた作業小屋の脇に隠して、菜園を横切って校内に入ったのだ。
 入っていったのが、百年も千年も昔のことに思えた。
 空はすっかり暮れかかり、雲が紅く染まっている。
 気でも失っていたのだろうか、本当に記憶が飛んでいるようだ。どうしてそこまで歩いて来られたのか、何度思い返してもここまでの風景が脳内から抜け落ちていた。
 急に、みずきのことを思い出した。
 彼女は無事だろうか?
 四宮は震える指で、メールを打つ。
「菜園で待ってる」
 そして、敷地の堺に生えているセンダンの木の下に崩れるように座り込んだ。

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