つめあと  ~ルーチョ・フォンタナ「空間概念 期待」に~

有名な一枚を見に行ったはずなのに
それとは別の単純明快なようで複雑な一枚が
今でもなんだか忘れられないわ
真っ赤なキャンパスを切り裂く
3本の筋が黒いあの絵

あのひとは仕事をするうえで
私がいないと困ると言ったわ
私は自分がいなくても
あなたはきっと困らないと言ったわ

だけど私が辞めるときには
少しはつめあとを残したい
私はそんな話をしたわ
あのひとは感情の読み取れない声で
そんなんもう血まみれだと言ったわ

酔った私が歩くときには
腕をつかんでいてもいいと言われて
私は跡が残らないかを気にしたわ
あのひとはまた感情の読み取れない声で
そんなん別に構わないと言ったわ

二人でベッドに入ったときには
体に跡さえ残らないのなら
何でもしていいと言ったわ
私は分かったと言いながら
あの絵のことを思い出していたわ

あのひとは仕事をするうえで
私がいないと困ると言ったわ
私は自分がいなくても
あなたはきっと困らないと言ったわ

でも と私は聞いたわ
私がいなくなったらさみしい?と
あのひとはきちんとは答えなかったわ
答えるというよりは聞き返してきたわ

あの言葉の意味を未だに理解できないでいるの

私が仕事を辞めたとき
あのひとは感情を見せなかったわ
私は自分があのひとの前から去ったとしても
あのひとにつめあとが残ればいいと思ったわ

一生ふさがらないほどにはっきりと分かる
あの絵のようなつめあとが残ればいいと思ってるわ
何年もたった今でもふさがらないほどに深い
あの絵のようなつめあとが残っていればいいと思ってるわ