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J-Popまもるくんの萌芽——「守るべきもの・守られるべきもの」序説

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 「俺がお前を守るから」。これまでのJ-Popにおいて、少しずつ形を変えながら繰り返し歌われてきた、男女の親密性についての価値観が伺われる表現だ。その親密性の正体について考えるならばおのずと、「何から守るのか」という問いが生まれてくるに違いない。本論考は「敵」が残した歌詞という足跡からその容貌・正体へ近づいていく、探偵の試みである。


分析の方法論

 人々の集合的な意識または無意識の現れである文化を語るにはまず、その時代背景を知る必要があろう。そもJ-Popはみんな大好きWikipedia先生によると、「1988年末にラジオ局のJ-WAVEでその語と概念が誕生した後、1993年頃から青年が歌唱する曲のジャンルの一つとして一般化した」ものらしい。文化史的な視座から見て、J-POPは90年代的な文化意志の影響下のもと、広く受け入れられるようになったと僕は解釈する。

 下の図1は「君を守る」といった表現が見られる主な曲の名前とアーティスト、リリース年を整理したものである。時代が下るにつれ膨大な曲数になっていくが、僕の関心は、これらに見られるような感性がいつ頃登場し、そして共有されたのかという問題にあるから、表では省略してある。

図1

 そうした観点から見ていくと、ここで挙げた曲のうち、気になるのはやはり松任谷由実「守ってあげたい」岩崎宏美「聖母たちのララバイ」だろう。メジャーな音楽に疎い自分なりにインターネットの海を泳いでみたが、これ以上年代を溯ろうとするのは徒労と判断し、手を引かせてもらった。この二曲が、やがて広く共有されることになる「君を守る」といった想像力の先駆けだったという仮説を、とりあえずは唱えておこうと思う。

「企業戦士」たちと「聖母」

 気になったのは後者「聖母たちのララバイ」の歌詞に、Twitterのメモ書きにも記した通り、「戦士」「戦場」といった表現が見られること。「都市(まち)」は「戦場」であり、「聖母」に慰められる「男」たちはみな、「傷を負った戦士」だというのである。

 歌詞の内容は男の暴力性を肯定しつつ、女性優位である。曲のリリースされる82年は男女雇用機会均等法の85年までもうすぐだ。そうした男女観の変遷の歴史の1頁として、「聖母たちのララバイ」は位置づけられるべきなのだろう。

 この曲名を見つけたサイト(確かヤフー知恵袋だったはず)には、YouTubeにある同曲のライブ映像のURLが貼ってあった。動画を観てみると、いわゆる「企業戦士」についての言及が、コメント欄に幾つか散見された。それは単なる感想であり、解釈に過ぎない。しかし、そのような解釈が生まれた事実は否定できない。

 どこか潔癖で、土や血の匂いのしない、軽薄かつ透明な、しかし現代的であるが故に無視できないシティ・ポップ。松任谷由実は、70年代後半から80年代にかけて一世を風靡する、このジャンルを作り上げた一人だった。

 80年代の浮ついた消費文化の隆盛の背後には、「企業戦士」たちの目に見えぬ敵との闘争があったのである。先の大戦の延長戦と単純化することはできないが、敵の正体がアメリカ経済であったことは、バブル崩壞の背景を見れば明らかだ。そうして姿を消していく「企業戦士」のなかには、岩崎宏美の歌声に守られていた者も少なからずいたのであろう

一九七〇年代から八〇年代におけるアメリカ経済の苦境は、とくに労働生産性の伸びの鈍化にもとづく実質賃金の低迷と失業者の増大は、アメリカ国内における貯蓄不足に主として起因していた。その国内問題を日米貿易摩擦という国際問題に転化させよう、それがアメリカの政治家およびエコノミストの(ほとんど策動に近い)言説であった。その言説にもとづいて、日本経済は規制緩和の負荷をかけられたのである。こうした国際政治の背景に言及しないかぎり、日本の規制緩和論者はアメリカの走狗であるといわれても致し方ない。

西部邁「エコノミストの犯罪 「失われた10年」を招いたのは誰か」
PHP研究所、2002年、17頁

あのバブルは、内需拡大と言うアメリカの対日要求に端を発していた。それを歓迎したわが国のエコノミストの愚かしさが見逃しにされてよいはずはない。私自身は、エコノミストでないにもかかわらず、市場における「内需」の拡大は不動産の方面においてしか見出されないであろうと主張していた。エコノミスト連が愚かであるというのは、内需拡大のための流動性散布と言う介入的な規則は市場機構を14人状態に陥らせたからである。政策をめぐる介入から、4人への逆転現象、それこそが、あの経済的不安定の真因なのであった。

西部邁「エコノミストの犯罪 「失われた10年」を招いたのは誰か」
PHP研究所、2002年、18頁
「エコノミスト連」の記述は原文ママ

忘れられた社会運動とその敵

おいらみにくい どぶねずみ
人目をさけてこそこそと
朝から晩まで這いまわり
ゴミためあさって一日くれる

サンハウス「どぶねずみ」

 また、上記の図1において見逃せない曲がもう一つある。THE BLUE HEARTS「キスしてほしい」だ。先ほど「80年代の浮ついた消費文化の隆盛の背後には、「企業戦士」たちの目に見えぬ敵との闘争があった」と書いた。その背後はさらに錯綜しており、探っていくことができる。外山恒一「改訂版 全共闘以後」を参考に、80年代においてブルーハーツが登場するまでの流れを見ていこう。

 外山は、全共闘を出自とする糸井重里や坂本龍一を「"80年代"の文化運動において最大のアジテーター」だったと評価し、政治とのアンビバレントな距離間を指摘する。その背景には新左翼の党派同士による凄惨な内ゲバがあり、「西側先進諸国」に見られるような政治(運動)・思想(フランス現代思想など)・文化(サブカルチャー)の三位一体としての運動は不可能になったのである。

 そして本書でこれから述べるように、”80年”の文化・思想運動は、本来ならば”同類・同根”であるはずの”80年”の政治運動と敵対的な関係を生じる。その結果として、”89年”の若者たちも”80年”の文化・思想運動とは敵対的、というより端的に断絶してしまう。

外山恒一「改訂版 全共闘以後」
イースト・プレス、2018年、65頁

 外山は絓秀実の"89年革命"論を参照、これの先取りとしての「"68年"が予見したものを現実化(太字引用者)したものだと論じる。すなわち冷戦のあっけない終わりである。ソ連の影響下にあった東欧諸国では民主化が起こり、日本では「55年体制の崩壊」として現れた。「そう、89年夏の参院選での土井社会党の勝利である。」「そこに巻き込まれるところから出発したさらに若い世代の諸運動」とブルーハーツは密接に繋がっていたと外山は言う。

 ブルーハーツの”メッセージソング”は、素朴な社民的ムードに包まれた”日本の89年革命”の高揚局面という特異な時代状況と無関係には成立しえなかった。前章で触れたように85、86年頃の最盛期の青生舎には 甲本と真島も少なからず顔を出すことがあり、ブルーハーツは事実として”日本の89年革命”を彩る諸運動の近傍に身を置いていた。

外山恒一「改訂版 全共闘以後」
イースト・プレス、2018年、154頁

 ブルーハーツの一番脂の乗っていた時期は外山によれば「85、86年頃」。「キスしてほしい」リリースは87年。「甲本や真島はそうした”レッテル貼り”に戸惑っていた気配が濃厚」であり、活動に陰りが見えてきているとはいえ、ブルーハーツはれっきとした社会派のバンドとされた。「キスしてほしい」はそのような文脈のもとに聴かれていたと見ても間違いではないだろう。

もう動けない 朝が来ても
僕はあなたの そばに居るから
雨が降っても 風が吹いても
僕はあなたを 守ってあげる

THE BLUE HEARTS「キスしてほしい(トゥー・トゥー・トゥー)」

 「もう動けない 朝が来」るとすれば、そこにはどのような理由があるのだろうか。「雨」や「風」といったイメージを借りて現れているが、「敵」の容貌は判然としない。引き続き、外山が描く政治/文化史を読んでいく。

 80年代後半の”ドブネズミ”たちの文化的背景として大きな位置を占めた1つは雑誌『宝島』だった。『宝島』は”80年”において『ビックリハウス』に次ぐサブカル青年たちのバイブルでもあったが、81年というきわめて早い時点からの反原発運動との並走、そして80年代半ばからのバンドブームの牽引によって、80年代後半の”ドブネズミ”たちにも大きな影響力を持つに至る。
 その『宝島』が90年代に入るや急速に”右傾化”していく。

外山恒一「改訂版 全共闘以後」
イースト・プレス、2018年、286頁

 こうした「右旋回」現象の源流に外山は呉智英を見、「呉の”左翼批判”は新旧左翼の欺瞞性への批判であり、それ自体としてはまったく間違っておらず、むろん保守的・体制的なものでもなかった」と評している。その弟子筋である「59年生まれの浅羽通明と大月隆寛、64年生まれのオバタカズユキが」右派的に受容するのである。

 「むろん浅羽言説の熱狂的な享受者の大半は、佐藤や外山のようなラジカル派ではなく、いわばその時代に”決起できなかったドブネズミ”たちである。」とはいえ、ブルーハーツを受容しつつ政治運動へ参加する”ドブネズミ”たちの現象から、このような傍流が生まれてきた事実は無視できない。

僕たちを縛りつけて ひとりぼっちにさせようとした
全ての大人に感謝します
1985年 日本代表ブルーハーツ

THE BLUE HEARTS「1985」

 ここで甲本ヒロトは明らかに「日本代表」という立場を引き受けている。古代日本の律令体制の廃墟の上に封建制は敷かれ、それらを解体・再構築する形で近代日本は成立した。いかに近代日本が構築物であろうとも、我々は日本語でモノを考えている。構築物に我々は規定されている。人は国語に住む、といった主旨のことをシオランは言ったそうだが、あながち間違いではなかろう。ちなみに袴田渥美は「1985」について、次のように述べている。

 最初のワンマンライブ以降、二度と演奏されることのなかったこの曲は、すべてが焼き尽くされた場所からはじまる。銀色のボディーに誰かの名前を刻んだ飛行機とは、まずまちがいなくエノラ・ゲイであるはずだが、同時に「人にやさしく」もまた「気が狂いそう」の声からはじまることを思いださなければいけない。なにかが決定的に破綻したその場所から書きはじめることは、甲本ヒロトの詩法にとりなにも珍しいことではない。

袴田渥美「甲本ヒロトと、すべて死すべきロックンロールのために」
「ラッキーストライク」第3号、『ラッキーストライク』編集部、2024年に所収

 学生運動が隠された反米ナショナリズムの発露であったことは、「ファシスタたらんとした者」をはじめとする西部邁の著作や、絓秀実「革命的な、あまりに革命的な」などから読みとることができる。「1985」その他反米的な歌詞を書いた甲本ヒロトは、そして彼に感化されていた"ドブネズミ"たちは、自覚していようといまいと、そうしたナルシシズムを抑圧しきれぬまま貫かれていたのだと僕は見る。

 敗戦国の運命を内包し、受け身にならざるを得ない者が再度立ち上がる時、何らかの守り抜きたい「故郷」を仮構、あるいは発見する必要に迫られるであろう。西部邁における「妻」がそうであったように。この「故郷」が甲本ヒロトの場合、「キスしてほしい」において、「あなた」という形に仮構・昇華されたのではないか——このように考えられるのである。

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