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クリスマスになると聴きたくなる曲——amazarashi「クリスマス」
※この記事は文学サークル「お茶代」の課題として作成しました。全文無料でお読みいただけます。
虚偽りの社会で会話は可能か
クリスマス Christmas という英語は、キリスト Christ のミサ Mass を意味するのだという。この祭りが日本において広く受け入れられるのは昭和初期、大正天皇祭として25日が休日とされてからである。
評論家の佐藤健志は、このイエスの降誕祭の戦後における変化について、次のように論じている。
仲間外れを恐れて必死に遊ぶとは、ネアカであることほどネクラな振る舞いはないと評したくなるが、これは何ら不思議ではない。ネアカの起源であるシラケや三無主義の姿勢は、本来ネクラの方に近いのだ。むしろネアカこそ、シラケが繁栄にアグラをかいて開き直った代物だったと言えよう。
ネアカな若者たちは、独自の「メリークリスマス」も考案するにいたる。恋人とフランス料理の店に行ったあと、ホテルでセックス、いや「ニャンニャン」(当時の流行語)するのが、正しいクリスマスの過ごし方ということになったのである。このようなクリスマス・デートが流行りだしたのも、例によって一九八三年であった。
祥伝社 平成25年
太字箇所は原文ママ
現代まで続くこのクリスマスと恋愛を結びつける傾向は、孤独感を埋め合わせる為の発明と言える。彼は同著にて、「終戦」ならぬ「敗戦」から始まるその歴史を「ファンタジーの戦後史」と呼んでいる。
この「虚構としての戦後社会」という主張は何も彼の専売特許ではない。江藤淳の「『ごっこ』の世界が終わった時」、そしてそれを踏まえた宇野常寛「母性のディストピア」などもこの認識を共有する。
以前より論じられてきた「虚構としての戦後社会」の限界は、バブル崩壊によって表面化。その後もなお誤魔化しは続き、ほぼ何も変わらぬまま約20年が経ったころ、ロックバンドamazarashiはメジャーデビューを果たす。
誰かの言葉で話すのやめた 誰かの為に話すのやめた
ノルマ、売り上げ、数字じゃなくて 僕は言葉で会話がしたいよ
amazarashiの最大の魅力は何といっても、その激烈な歌詞だろう。ギター・ボーカルの秋田ひろむがつむぐ言葉に、嘘偽りの匂いはせず、かつ文学性を兼ね備えている。決定的な挫折を経た濃密な人生経験が、その説得力を確かなものにしている。今回紹介する楽曲「クリスマス」においても、それは同様である。
上記の動画のコメント欄を見ることはお勧めできない。異口同音に自分語りと楽曲へのひたすらの讃美を繰りかえす、彼らの生き方を全否定しようとは思わぬ。ただし、次のような感想を抱いたことが、小説家を志す大きなきっかけとなったのは否定できない。
「彼らと同じように振る舞い、同じような言葉を吐くことは、自分にはもはや不可能である」
「大衆の中の差異化ゲーム」
それ以来、僕は大衆を呪いながら、本の虫となり、思想と美について考え続け、よりよい小説を書いてみせようと励んできたつもりだった。少なくとも自分なりには。そしていざ振り返ってみれば、はや数年が経っていた。
知りたいことは多く、書きたいことは尽きぬ。ただし時に、はやる情熱が姿を隠す。あれほど頭の中を駆け巡っていた言葉がなりをひそめる。振り返れば、そのような日の方が多いのかもしれない。特にこの季節においては。
そうして性懲りもなく、再び「原点」へと立ち返り、とある事実を突きつけられる。そして失意に至る。
小さな雪の粒も積み重なれば 景色を変えるのは不思議ですね
どうしようもない日も積み重なれば 年月となるのは残酷ですね
この曲が収録されているアルバム「ワンルーム叙事詩」は冬が似合う。全曲に通底する寒々としたもの悲しさに、それと表裏一体のリード曲「ワンルーム叙事詩」の激情。無力さに打ちひしがれ、その度に己を奮いたたせ。目を閉じれば、「真っ白な世界」を舞台に生きる男の姿が眼裏にうつるようだ。
イヤフォンの中でしゃべるFM 曲紹介で途切れた音の間に
ぶつかった男の舌打ち 地下鉄の風は故郷の
海風に似てる
「クリスマス」の歌詞は、この後半部分の表現が特に気に入っている。僕は故郷を出たことがないけれども、我々近代人はなべて、前近代という名の故郷を喪失していると言えはしまいか。しげのかいりはフランス革命以降のフランスの状況についてこう述べている。
自由・平等・博愛が確立され、個人による社会の変革が始まる予感だけが当時のフランスでは充満していた。しかし蓋を開けてみると出てきたのは「何者かになろうとする」が「何者でもない」多くの一人でしかない自分。「大衆」の一人でしかない自分であった。ここでは「似ている」ことは逆の意味を持つ。誰にも「似てない」ことは「似ている」ことでしかない。自分こそが個人であり誰にも「似てない」新人類であるという意識はかつてパリに立身出世を求めてきた多くの「似ている」人間たち=大衆の中の差異化ゲームでしかなかった。
「ラッキーストライク」創刊号 所収 2021年
あらゆる人間が交換可能になり、「差異化ゲーム」を強いられる時代。それをもたらしたのが自由意志でないことは明らかだ。この「正しさ」を解体したなれの果てを予測可能と断じるならば、それは現代人の慢心にすぎない。革命を「電撃的に到来する」と言ったのはブランキだ。
秋田ひろむの歌声は土の匂いがする。そこには大衆と距離を置く屈折を読み取れるし、文字通りに土着性を見いだすことも可能だ。それはすべてが一般化される近代への反抗と読める一方、近代を象徴する「鉄道」もまた、宮沢賢治を経由して彼の歌詞にあらわれる(「スターライト」など)。
「光、再考」や「アノミー」、「性善説」、「リビングデッド」の歌詞は明らかに「Godの死」を主題としている。ニーチェを西欧におけるキリスト教の変種と見れば、「神様」に対する彼のアンビバレントな態度も理解できよう。
超越と虚構の狭間に
さあ祈ろうぜ世界の為に 救いようない僕らの為に
秋田ひろむの書く歌詞には、キリスト教を連想させるものが多い。このような「水平化の時代(キルケゴール)」にあって、彼は「あえて」超越性を持ちだしたのだとすれば、どうだろうか。
僕はキリスト者ではないものの、超越性への意識を持っている点において共感を覚える。プロテスタント神学者トレルチの言い回しにならえば、人は本性的に宗教的なのだ。近代は信仰の内面化をも意味したのだが、中途半端にしかキリスト教を受容しなかった日本人にはそれが分からない。
冒頭にて、僕は戦後社会を「嘘偽り」と表現した。だがさらに突きつめて言えば、社会そのものが虚構としての構築物なのである(もちろんこの事実は、戦後日本人を免責するものではない)。フランス革命直後の人々がかいま見たのは、万物に支えられ浮かぶ社会の奇跡性と言えよう。にも関わらず、その奇跡を前提にすることでしか我々が生きられない事実。原罪という言葉と何かしら重なるものがある。
汚れた僕が汚した世界 だからこそ嫌いになれないよ
虚構を積み木のように組み上げていく、社会という試み。当然凸凹や歪みがあらわれる。それらをまとめて受け入れ、次の一歩を踏み出すこと。さらに言えば、その名もなき一歩をもって、運命を愛することはできないだろうか?
プロテスタントの弁証法神学は、図らずも信仰を人間の内面における現象へと矮小化した、自由主義神学への否定的批判として生まれた。この弁証法神学へ影響を与えた一人として、宗教を否定したフォイエルバッハが挙げられる。
フォイエルバッハは自由主義神学者シュライエルマッハーを踏まえ、宗教を虚構とする。Godは人間の発明であり、神学はそれを通して人間について知ることができる人間学なのだ。原典は不明だが、フロマートカの次の言葉を引用する。
バルトは言っている。人間の前提の上に、そして人間の宗教的前提の上に構築するならば、フォイエルバッハは正しい。私たちは、神自身が私たちに話し語りかけてくるものの上に構築しなければならない。
「神学入門――プロテスタント神学の転換点」
新教出版社 2012年
フォイエルバッハの言説はフランス革命と同様、「正しさ」の解体を意味した。それに対し弁証法神学は、キルケゴールを参照し、Godの存在の垂直線と人間の生の水平線の弁証法をもって応えた。
もちろんこれを成功と見るのは人間の傲慢である。神学とは乗り越えられぬ超越性に手を伸ばし続けることだ。過ちは避けられない。このような意味において、「正しさ」を解体する思想もまた必要なのである。そしてその過ちの一つ一つが、括弧に入らない正しさに対する再解釈であり、新たな伝統の創造、虚構の発明なのである。
佐藤優の言うように、神学は「虚学」だ。「虚学」は世界観を提示し、人間、そして文明のあり方を指し示す。近代国家は、法律の側面からルソー的に、社会経済の側面からヘーゲル的に解釈されるが、それらはGodの摂理を解釈する神学の変種だった。
「クリスマス」の歌詞をはじめ、秋田ひろむは往々にして世界(万物、ピュシス)と社会(ノモス)を取り違える。しかしその過ちを嗤う資格は僕にはないだろう。彼の現実と闘いつづけるその態度から何をくみ取るかが肝心なのだ。
たとえ虚構であろうと、本心より生まれでた言葉に「嘘偽りの匂いはせず」、今日もまた誰かの心を震わせ続ける。
脱輪さんのご批評
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
スタイルの面から言えば、特に日本近代文学にあった無頼の精神と、無頼になり切れぬ、いや、あえてそれを気取るがゆえの硬質な叙情の発露を感じました。火野さんの小説『骨拾い』を拝読した際にも感じたことですが、「~ぬ」の歯切れよい表現や「何も~ない」を「なにも」とひらがなで開かない
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書きぶりに、文体への執着と自身の所属を証す矜恃を感じます。
— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
特に画像の引用部分のくだりなど、実に美しく、かっこいいですねえ。
自らが置かれた環境の提示を含め現代風に「嘘がなく」モダナイズされつつ、野性の熱があります。
痺れました。 pic.twitter.com/tBWM72TjjY
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
続いて、内容についてです。
“差異化ゲーム”なりシミュレーショニズムとしての近現代の議論はギー・ドゥボール~ボードリヤール路線を経て広く受容されマーク・フィッシャーの言う資本主義リアリズムにまで通じていく問題系だと思いますが、ここで宇野常寛の名前を出されているとおり、
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
ウチらの国の90年代後半~2000年代批評においても盛り上がったポイントですよね。そんななかで、宮台真司、大澤真幸、(ある時期までの)東浩紀、あたりはネガティヴな意味合いを持っていた“交換可能”概念をポジティブに反転させて提示していたのだと思います。
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
「交換可能だから、わたしじゃなくていい·····」を「交換可能だからこそ、わたしじゃないあなた(他者)を想像することができる。今この瞬間、わたしがあなたであったとしてもおかしくないのだから」というポジティブな願いの想像力へと変換しようとしたのだと。
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
それをもって、フーコーの言う近代的な管理社会の“生政治”のあり方に対抗しようとした。昔東浩紀が大澤真幸との対談の中で「フーコーの言う生政治という言葉はどうも大げさな気がしてかえって本質を取り逃がしてしまう気がする。現代式管理社会のあり方はもっとささいでいやらしい。例えば」
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
「例えば、マクドナルドの椅子がかたくて長時間座ってられないから誰に言われるでもなく“自然と”次から次へと人が移り変わっていき、ある程度の客回転率が担保される、というような」(大意)という発言を行っており、(僕の読む限り、大澤にはいまいち伝わらなかったようですが)東はその後
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
「マクドナルドの椅子がかたい、というような、取るに足らない権力のいやらしさ」について同書の中で繰り返し言及しようとしてました。僕はamazarashiの熱心なリスナーではないのですが、火野さんの文章を読んでいて、秋田ひろむ氏はそのようなややもすれば批評的言説が取り零してしまいそうな
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
些細でいやらしいリアリティのラインを捉えようとしてるのではと感じました。それをジャストサイズでできるのはやはり、ポップカルチャーでしょうから。無論、ジャストサイズだけでは片手落ちというか、抗するに足りないわけですが。
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お役に立ててよかったです☺️
— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
90年代後半~2000年代に“交換可能”概念を反転させたコミュニケーション論が流行した理由は単純で、インターネットや電子管理が隆盛しはじめたからです。情報になるというのはからだがなくなることですから、まさに交換可能であり、一元的な管理がしやすくなる。
近代以降の人間の疎外ないしは機械化の流れの中に、𝐈𝐧𝐭𝐞𝐫𝐧𝐞𝐭は新たなレヴェルを付け加えてしまった。これが実用化されてしまった以上、すべての人間は交換不可能な存在だ!という素朴なヒューマニズムは無効になる。むしろ交換可能であること自体の意味を捉え直す必要が出てきたわけです。
— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
貴文は、批評的には、近代vs前近代、水平性(ネガティヴな意味での交換可能性)vs垂直性(超越性)、そしておそらくは東京vs地方(秋田ひろむ氏が見ている、ものを火野さんが見た)という対立ないし止揚構造を軸にしていると思われます。
— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
そこにはおそらくニーチェの言ったアポロン的理性vsディオニュソス的混沌の対立構図も暗に含み込まれていることでしょう。批評者としてはこの“公式”をいかにして批評対象に代入するかが難しいわけですが、秋田ひろむ氏をすべての軸における後者とまずは位置づけつつまっすぐ語られており、
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
たいへん男らしい、好感の持てるポイントでありました。後半でやや注釈が加えられるとはいえ、基本的には、秋田ひろむ(amazarashi)=都市(東京)に対する田舎(地方)、前近代の野性、愚直なまでの超越性(垂直性)という見立てに沿っておはなしが組み立てられている。
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
あーそうか、大衆vs孤独な表現者という構図も大切ですね。
以上を踏まえた上で見ると、画像のくだりは行空けの前後に、つまり“公式”の提示と批評対象へのそれの代入の手つきとの間に明らかな飛躍が認められるわけですが、しかしそれがたいへん力強く、好ましい。
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
これはディスではなく、「やはり、この人はどこまでいっても文学の人なのだなあ」と感じ入った次第。
例えば僕は、そのような、ひとつのジャンルなり形式に対する愛に殉じ切れない人間なので。
はっきり言ってしまえば、僕にとっては“批評”や文章という枠組みすらどうでもいい。
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— “お茶代”【公式】@お金がもらえる文学サークル (@ochadaiofficial) December 26, 2022
ただおもしろい、人を笑わせるものを作って、いい人たちとなかよくしたい。
その程度なのです。
改めて、ご参加いただきありがとうございました!
残り日数少ないですが、ぜひ他の課題にも挑戦してみてください!☺️👍✌
脱輪拝
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