クリスマスになると聴きたくなる曲——amazarashi「クリスマス」
※この記事は文学サークル「お茶代」の課題として作成しました。全文無料でお読みいただけます。
虚偽りの社会で会話は可能か
クリスマス Christmas という英語は、キリスト Christ のミサ Mass を意味するのだという。この祭りが日本において広く受け入れられるのは昭和初期、大正天皇祭として25日が休日とされてからである。
評論家の佐藤健志は、このイエスの降誕祭の戦後における変化について、次のように論じている。
現代まで続くこのクリスマスと恋愛を結びつける傾向は、孤独感を埋め合わせる為の発明と言える。彼は同著にて、「終戦」ならぬ「敗戦」から始まるその歴史を「ファンタジーの戦後史」と呼んでいる。
この「虚構としての戦後社会」という主張は何も彼の専売特許ではない。江藤淳の「『ごっこ』の世界が終わった時」、そしてそれを踏まえた宇野常寛「母性のディストピア」などもこの認識を共有する。
以前より論じられてきた「虚構としての戦後社会」の限界は、バブル崩壊によって表面化。その後もなお誤魔化しは続き、ほぼ何も変わらぬまま約20年が経ったころ、ロックバンドamazarashiはメジャーデビューを果たす。
amazarashiの最大の魅力は何といっても、その激烈な歌詞だろう。ギター・ボーカルの秋田ひろむがつむぐ言葉に、嘘偽りの匂いはせず、かつ文学性を兼ね備えている。決定的な挫折を経た濃密な人生経験が、その説得力を確かなものにしている。今回紹介する楽曲「クリスマス」においても、それは同様である。
上記の動画のコメント欄を見ることはお勧めできない。異口同音に自分語りと楽曲へのひたすらの讃美を繰りかえす、彼らの生き方を全否定しようとは思わぬ。ただし、次のような感想を抱いたことが、小説家を志す大きなきっかけとなったのは否定できない。
「彼らと同じように振る舞い、同じような言葉を吐くことは、自分にはもはや不可能である」
「大衆の中の差異化ゲーム」
それ以来、僕は大衆を呪いながら、本の虫となり、思想と美について考え続け、よりよい小説を書いてみせようと励んできたつもりだった。少なくとも自分なりには。そしていざ振り返ってみれば、はや数年が経っていた。
知りたいことは多く、書きたいことは尽きぬ。ただし時に、はやる情熱が姿を隠す。あれほど頭の中を駆け巡っていた言葉がなりをひそめる。振り返れば、そのような日の方が多いのかもしれない。特にこの季節においては。
そうして性懲りもなく、再び「原点」へと立ち返り、とある事実を突きつけられる。そして失意に至る。
この曲が収録されているアルバム「ワンルーム叙事詩」は冬が似合う。全曲に通底する寒々としたもの悲しさに、それと表裏一体のリード曲「ワンルーム叙事詩」の激情。無力さに打ちひしがれ、その度に己を奮いたたせ。目を閉じれば、「真っ白な世界」を舞台に生きる男の姿が眼裏にうつるようだ。
「クリスマス」の歌詞は、この後半部分の表現が特に気に入っている。僕は故郷を出たことがないけれども、我々近代人はなべて、前近代という名の故郷を喪失していると言えはしまいか。しげのかいりはフランス革命以降のフランスの状況についてこう述べている。
あらゆる人間が交換可能になり、「差異化ゲーム」を強いられる時代。それをもたらしたのが自由意志でないことは明らかだ。この「正しさ」を解体したなれの果てを予測可能と断じるならば、それは現代人の慢心にすぎない。革命を「電撃的に到来する」と言ったのはブランキだ。
秋田ひろむの歌声は土の匂いがする。そこには大衆と距離を置く屈折を読み取れるし、文字通りに土着性を見いだすことも可能だ。それはすべてが一般化される近代への反抗と読める一方、近代を象徴する「鉄道」もまた、宮沢賢治を経由して彼の歌詞にあらわれる(「スターライト」など)。
「光、再考」や「アノミー」、「性善説」、「リビングデッド」の歌詞は明らかに「Godの死」を主題としている。ニーチェを西欧におけるキリスト教の変種と見れば、「神様」に対する彼のアンビバレントな態度も理解できよう。
超越と虚構の狭間に
秋田ひろむの書く歌詞には、キリスト教を連想させるものが多い。このような「水平化の時代(キルケゴール)」にあって、彼は「あえて」超越性を持ちだしたのだとすれば、どうだろうか。
僕はキリスト者ではないものの、超越性への意識を持っている点において共感を覚える。プロテスタント神学者トレルチの言い回しにならえば、人は本性的に宗教的なのだ。近代は信仰の内面化をも意味したのだが、中途半端にしかキリスト教を受容しなかった日本人にはそれが分からない。
冒頭にて、僕は戦後社会を「嘘偽り」と表現した。だがさらに突きつめて言えば、社会そのものが虚構としての構築物なのである(もちろんこの事実は、戦後日本人を免責するものではない)。フランス革命直後の人々がかいま見たのは、万物に支えられ浮かぶ社会の奇跡性と言えよう。にも関わらず、その奇跡を前提にすることでしか我々が生きられない事実。原罪という言葉と何かしら重なるものがある。
虚構を積み木のように組み上げていく、社会という試み。当然凸凹や歪みがあらわれる。それらをまとめて受け入れ、次の一歩を踏み出すこと。さらに言えば、その名もなき一歩をもって、運命を愛することはできないだろうか?
プロテスタントの弁証法神学は、図らずも信仰を人間の内面における現象へと矮小化した、自由主義神学への否定的批判として生まれた。この弁証法神学へ影響を与えた一人として、宗教を否定したフォイエルバッハが挙げられる。
フォイエルバッハは自由主義神学者シュライエルマッハーを踏まえ、宗教を虚構とする。Godは人間の発明であり、神学はそれを通して人間について知ることができる人間学なのだ。原典は不明だが、フロマートカの次の言葉を引用する。
フォイエルバッハの言説はフランス革命と同様、「正しさ」の解体を意味した。それに対し弁証法神学は、キルケゴールを参照し、Godの存在の垂直線と人間の生の水平線の弁証法をもって応えた。
もちろんこれを成功と見るのは人間の傲慢である。神学とは乗り越えられぬ超越性に手を伸ばし続けることだ。過ちは避けられない。このような意味において、「正しさ」を解体する思想もまた必要なのである。そしてその過ちの一つ一つが、括弧に入らない正しさに対する再解釈であり、新たな伝統の創造、虚構の発明なのである。
佐藤優の言うように、神学は「虚学」だ。「虚学」は世界観を提示し、人間、そして文明のあり方を指し示す。近代国家は、法律の側面からルソー的に、社会経済の側面からヘーゲル的に解釈されるが、それらはGodの摂理を解釈する神学の変種だった。
「クリスマス」の歌詞をはじめ、秋田ひろむは往々にして世界(万物、ピュシス)と社会(ノモス)を取り違える。しかしその過ちを嗤う資格は僕にはないだろう。彼の現実と闘いつづけるその態度から何をくみ取るかが肝心なのだ。
たとえ虚構であろうと、本心より生まれでた言葉に「嘘偽りの匂いはせず」、今日もまた誰かの心を震わせ続ける。
脱輪さんのご批評
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